第29期 #3
イラっとして思わず、おい!と大声を出してしまった。乗客は、頭のおかしい人がいる、といわんばかりにこっちを怪訝に見た。汗を流しながら縦断してきたんだから、普通じゃないのはわかっている。先頭車両から最後尾の車両まで、人を押し分けながら走ってきたんだ。ところが、俺の大声を合図のようにして地下鉄は動きだそうとした。こんなチャンスはもう二度とない。
2年も前からヤツを感じつつそれを確認できずにいた。でも今は地震による緊急停車のおかげで、暗がりに隠れているヤツを見つけることができた。場所は次の駅へ止まるために車両が減速を始めてスグの場所だ。やっと見つけた。そこにいる。ヤツも気づいているはずだ。なのに、ヤツときたら俺を完全に無視してやがる。
こんな悔しいことは今までにない。なめられてるのか俺は。動き出した地下鉄のドアにさらに顔を押し付け、ヤツをにらみつけた。その瞬間、暗くてよく見えなかった表情が一瞬だけわずかな光の中に見えた。その光で口元だけがはっきりと映し出された。
笑っている。
それはまるでバカにでもするように。頭がカーっときて、腹が煮え繰り返った俺はドアをたたきながら、おい!テメェ!とわめきたてた。自分でも驚くほどのでかい声で。乗客が前の車両へ移動したことさえ気づかなかった。早足で乗客はいなくなった。俺は、バンバン、バンバンとドアをたたく。しかし無力感が勝り、振り返ってしゃがみこんでしまった。深くて大きなため息。うなだれる頭。誰もいなくなった車両に、しばらくガタンガタンという音だけがした。
次に顔を上げた瞬間、驚きで俺は声を失った。ヤツが目の前に立っていたのだ。俺を真上から見下ろす。天井の蛍光灯が逆光で顔はよく見えなかった。しかし、その口元はあの薄笑いのまま。俺は恐怖のあまりドアに背中を押し付け、立てないでいた。ヤツはまるで、待ってたよ、という仕草をするように俺の肩をポンとたたいた。俺は気を失った。
俺は真っ暗な場所に立っていた。けたたましい轟音が近づいてくる。強風とともに列車が目の前を走り抜けていった。夜なのか?いや違う。トンネル?あれ?身動きがとれない。声も出ない。動くのは顔の筋肉だけ?
…俺はカベに埋まっていた。