第29期 #14
妻は眠ってしまった。自分も、と思うのだが眠れない。以前だったらジンでも飲むか、と棚まで行っただろうが、ひとまず書斎へ行って本を取って読む。
ある日妻が「煙草はやめた」と言った。朝食後に1本、昼食後に2本、帰宅後1本、夕食後1本――妻の喫煙は丸7年、規則正しく繰り返された。反射的に「俺も酒をやめるよ」と言った。まずいことを言った、というのが本音。あれから半年は過ぎたか。
一番辛かったのは吉田健一を読んでいるときで、血管が疼いてきた。しかし吉田健一こそが良酒である、と再定義してみたら、なんと! 吉田健一が読む酒になった。短編集「怪奇な話」、随筆「酒に呑まれた頭」「私の食物誌」、読むと酔っぱらう。
私は本を閉じ、ソファに深く沈んで目を閉じた。年上の人に飲ませてもらった極上の、緊張に満ちた1杯。友人と再会を祝った1杯。自分のために呑んだ1杯。その記憶の1杯を――ワイン、ブランデー、シングルモルト、日本酒――頭で呑んでいく。どの酒も舌が震えるくらいうまかった。舌の上で転がし、歯茎で味わい、喉を通り過ぎるまで時間をかけた。
闇が薄らいでいくのをぼんやり知っていたが、気づくと完全な朝になっていた。眠ったようだ。妻がジャージ姿で立っている。
「あなたこれ」
勢いよく投げ渡された私のジャージセット。
「ほら、今日からランニングよ」
寝ぼけたまま着替える私の隣で、妻は壁を相手にしているかのように話し続ける。
「私にはこんなにでっかい子供がいるんだから。この子で十分。そして私も子供でいるの。ねえ、私はもう大丈夫。立ち直った。ほらあなた何してんのよ、おいていくよ。はやく着替えなさい、走らなきゃ、走るのよ」
「ばぶー」
私は返事のつもりでこたえる。たしかにジュニアが加わるのは悪くなかったと思う。私は父となり妻は母となる。歓迎した。でも二人とも子供のまま年をとるのもいいな、と思う。
「ばぶー」
もう一度言ってみた。そして妻の頭に掌をのせて
「よしよし」
と言った。
靴をはき、ドアを開けると寒気が押し寄せてきて身体がのけぞる。そういえば、年が明けたのだ。
準備運動もせず、妻が走り出したのであわててついていく。風にむかって走るなんて何年ぶりだろう。「よろしく2005年、いい1年にしてやろうじゃないか」と口に出しそうになる。
年末の心地よい二日酔いは覚めた。しかし今日は妻と本物の酒をのむぞ。決めたのだ。
油断していると、転んでしまった。