第28期 #5
半年前、9年間勤めていた法律事務所を退職し、この雑居ビルの4階に自分の看板を掲げた。世に言う「独立」ってやつだ。しかしまだ一人もクライアントを抱えていない。現状は人を雇うほどの余裕なんてないから、何から何まで自分ひとりでこなさなければならない。正直、明日どうなるかの見通しは、夕暮れになった今も立たない。不満を挙げ出したらきりはないが、少なくとも24時間に一回は、ゆっくり床に就きたい。
閉じたブラインドの隙間から、夕陽が壁にストライプ模様を描いている。応接用のソファーに横になって、私はその影の微妙な推移を、長いことじっと眺めている。
ちょうどうとうとなりかけた頃、ドアをノックする音と、すりガラスの向こうに人の気配がしたので、乱れた居住まいを正しながらドアを開いた。これは本来、私がすべきことではない。
「遅くなってすいません」
作業服姿の老人だった。雑巾とゴム手袋を提げた空のバケツを手にしている。傍らには手押しのワゴンがあり、掃除用具一式が雑然と積み込まれている。向き合ってものの二秒で、虫の良い期待は消え失せた。そのワゴンには、この老人が、待望のクライアント一号である要素は何ひとつ積み込まれていなかった。
「○×社の者ですが、お部屋の清掃に参りました」
「すいませんが、なにかの間違いじゃないですか?」
老人が当然のように入ろうとするので、私は言った。「うちはおたくなんか頼んだ覚えはないんですが」
すると老人はポケットからメモを取り出し、このビルの私の事務所の番地と号室を言った。「・・・で、間違いないですよねえ?」
「とにかく、何かの間違いなんだ。見ての通り中は散らかってるが、ゴミとそうでないものの区別は他人には委ねられないものばかりでね」
そう口にした私は、まるで自分を凋落を認めたがらないかつての首長のように感じた。入り口から右側に積まれたダンボールの中には、二度と見返すことのない、過去に自分の請け負った裁判の調査資料。そして左側には、先日配送されたまま手付かずの私物類、衣類やなんかが…。たちまち、やりきれない気分になった。
「○○という方からご依頼があり、それで私はここに派遣されたのですが」
老人は言った。即座にピンとはこなかったが、それは妻の旧姓であった。
私はそれで改めて、妻は先月、長年属していた私というものから「独立」したのだということを思い出した。