第28期 #3

熱力学第二法則

 部屋の鍵を開ける。結婚してからも家族が一人増えてからも、扉はひとりで開けてしまう。この家の持ち主なのに、どうして外からインターフォンを押さなければならないのか、そこまでの信念を持っているのかどうかわからないけど今日もひとりで鍵を開けて玄関に入る。ちなみにひとり息子のハルキはインターフォンを家に入る時に押さないと気がすまない。もちろん手が届かないので、いつも抱っこしてボタンを押す。突起やねじ山ですら1歳になる前から押していた。ああいうのはなにか本質的に押したくなるなにかを秘めているらしい。
 話がそれた。どちらにしても僕は出迎えられる事などない。押さないから出迎えられないのだといわれればそれまでだけどたいてい彼女は部屋の真ん中で倒れこむように眠っているのだから仕方がない。携帯電話にメールを送ってもそれはずっと充電器に置かれたままで持ち歩かれる事などめったにない。まぁそれでも彼女は帰宅メールを要求する。返事が来た事はほとんどなくて、あったとすれば「牛乳かってきて」とかそんなんばっかりだ。もっとも僕の方もバカ正直に「帰りにゲーセンによってきます」なんて書くからいけないのかもしれないが。
 ただっぴろいテレビドラマに出てくるようなリビングのソファに眠っている妻というのは絵になるが、室内用滑り台つきジャングルジム(妻の要望で買った)を始め子供の電車やら車やら衣類やら洗濯物だかそうでないのかよくわからないものやらビデオからなにからなにまで散らかっている部屋。ここにあるものはすべて「子供が喜びそうだから、」の名目で彼女が買ったものばかりが散乱している。おれが買ったものはなにひとつない、いや金はすべておれがだしている、金の話になるとつい僕ではなくておれになってしまう。そんなことはどうでもいいのだが妻も働いているのでこれらの増殖は果てしなく、いわゆるエントロピーの増大、つまりは熱力学の第二法則、孤立系のエントロピーは増大するってやつで、この部屋ばまさにその通りだ。
 年中鼻炎もちの彼女は服用している薬のせいか、それとも最近行き始めたメンタルクリニックで処方された安定剤のせいか、仕事で疲れているのか、子供の相手に疲れたのか、ひたすら眠りこけている。その横でハルキも寝ていたようだが息子はしっかり鍵の開く音で目が覚める。パパーとようやく最近覚えてくれたその言葉でひたすらに僕を呼ぶ。



Copyright © 2004 安南みつ豆 / 編集: 短編