第28期 #16

環境に良い石鹸

「突然だけど母さん」台所で皿洗いを手伝う晶は、蛇口を捻りながら、母親の恵に問いかけた。「うちで使っている石鹸って、環境に優しいっていう触込みだったよね?」
「天然素材の特製のをね」恵は水洗いされた皿を布巾で拭きながら応えた。「でも何で急に?」
「いや、ふと思ったんだけどさ」スポンジに水を含ませた晶は、件の石鹸の入った液をスポンジに染み込ませながら続けた。「石鹸って、黴菌を殺しちゃうよね?」
「そうね」
「ということは、黴菌からみたら、石鹸って全然環境に優しくないんじゃないかしら?」
「成る程ね」皿を一枚拭き終えた恵は、次の皿に取りかかった。「でも、黴菌が私達の体に入ったらどうなるかしら?」
「そりゃあ、病気になるかも知れないけど…」
「黴菌の環境にもいい石鹸なんて使ったら、私達も病気になるかも知れない…どうしたの晶?」
突如、台所に鋭い悲鳴が広がった。引き金になったのは、コンロの上をねばねばと進む黒い物体だった。
「ゴ、ゴキブリがっ!」晶はスポンジを握っている事も忘れて手を振り回し、台所周りを石鹸水まみれにしはじめた。
「晶、落ち着いて!こういう時はね」恵はすかさず石鹸水の入ったボトルを掴み、その中身を本体より長い触角に向けて次々と放った。
石鹸水を浴びた巨大な甲虫は、触角と羽を三倍の早さでばたつかせ、コンロの上をのた打ち回った。
「ぎゃあっ、暴れてる暴れてる!」体をかばう様に構える晶の向こうで、ゴキブリは突如仰向けに転がり、長い足を痙攣させた。その動きも次第に緩慢になり、やがてぜんまいの切れた人形の様に動かなくなった。
「し、死んだ…」晶は体をこわばらせたまま、コンロの上の黒い塊に恐る恐る近付いた。「やっぱり毒が入っているんじゃないの?この石鹸」
「石鹸の泡で、呼吸が出来なくなったからよ」恵は平然と黒い塊を摘み上げ、台所の片隅のごみ箱へ投げ込んだ。「虫にとっては、確かに石鹸は毒かも知れないわね」
「そ、そうか…」
「でもまあ、虫一匹でここまで慌てる晶には、黴菌の心配はちょっと無理ね」石鹸水を手に擦りこませながら、恵は石鹸水でまみれた台所を見渡した。「それじゃ台所の掃除頼むわね、皿洗いは私がやるから」
「…」晶は一瞬ごみ箱の方を眺めた後、肩をすくめながら冷蔵庫の脇のモップを手に取った。



Copyright © 2004 Nishino Tatami / 編集: 短編