第278期 #1
バロック音楽が流れる朝、扇風機が話しかけてきた。男がレコードに針を落とし、妻と雑談していた時だった。
「はい、何ですか?」
人間の声で問いかけられ、二人は言葉を失った。買ったばかりの扇風機は音声センサー付きだが、雑音で誤作動もする。野山遊びの幼少期からは想像をこえたテクノロジーの進歩である。
その後も、資料を音読していると声が割り込んできた。
「どうかしましたか?」
煩わしさから、扇風機のICチップをパソコンに繋ぎ、「温度を下げる」というキーワードを書き込んだ。それ以降、声は止んだ。
ある日、友人にオウムの世話を頼まれた。在宅勤務の彼はすぐに頷いた。熱帯特有の鮮やかな羽と空洞のような瞳に、男も妻も心を奪われたのだ。
「お話するのさ」
「可愛いわね」
鍵のような嘴で豆をついばむ姿も愛らしい。
妻が出た後、リビングでパソコンを起動し、AIを開いた。
オウムを肩に乗せて「今日も暑いね」と声をかけると、同じ言葉を復唱した。まるで男の声だ。
鳥は翼を広げ、ゆっくりと机上へと移動し、歩き回りながら再び言った。
「今日も暑いね」
AIのマイク表示は点滅し、扇風機は待機モードに入っている。
男はその声がAIに拾われたらと一瞬よぎったがすぐ打ち消し、お茶を淹れに台所へ向った。
しばらくすると、オウムの声が繰り返し聞こえてきた。
「今日も暑いね! 今日も暑いね!」
模倣とは思えないほど切迫感が増してゆく。彼は不審に思い、台所から振り返ると、オウムが風に煽られていた。
羽を逆なで、全身を縮めながら叫ぶその様子に、AIが応答している。
「温度を下げた方がいいです」
「気温を下げます」
扇風機がそれに応じ、風量を上げる。気付けば、部屋から刺すような冷気が放出されている。
助けに向かう、その時。オウムの瞳に何かが映ったように見えた。どこまでも広がる青空と森林、風の匂い。両親や兄弟と笑いながら、木々をぬって追いかけ合う姿。それは男の原風景か、どこかで見た映像か、鳥の記憶か──知るすべはない。
ただ、それらが崩れ去るようにオウムは苦しげな表情に変わってゆく。
凍える鳥を胸元で温め、急いで別室へ移った。彼の手に小さな鼓動が伝わってきた。鼓動の波紋が広がってゆく。それは確かにここに在った。
まるで四重奏のようだと男は思った。AIが指揮を取り、扇風機がリズムを刻み、自分の体を通じて鳥のかすかな旋律が聞こえたのだ。