第273期 #1

練り香水

学校の帰り道、雑貨屋でカップを選んでいた。10歳ほど年上に見える20代後半くらいの男とすれ違った。

 その瞬間、香水の香りが漂ってきた。今まで嗅いだことのない、心の奥を揺さぶる香りだった。爽やかさと刺激、高揚感、涼やかな気品、それでいて懐かしさが混じり合う…。言葉では表現しきれない。主成分はモスク?オレンジ?フローラ?それともベルガモット?

 声をかけていた。口について出たと言った方が正しい。
「あの、何の香水ですか? 使ってる香水…」

 人見知りで、学校でも話せる相手は片手で数えるほどしかいない。それが、年上の異性に話しかけるなんて——逆ナンじゃん、やば。

 男は驚く様子もなく、雑貨屋に併設された喫茶店に私を誘った。
 やばいやばい。でも、見た目では、彼は普通…いや、イケてておしゃれな雰囲気なんだけど。

「あっこれ、練り香水。いい匂いかな?」
「すごくいい香りです。嗅いだことないです」
 
 彼によれば、この練り香水をつけていると、声をかけられるらしい。人種や年齢、性別を問わず、道で突然外国語で話しかけられたり、犬が大口を開けて飛びついてきたこともあるとか。逆につけすぎたと思っても、全く気づかれないこともあるそうだ。

 本当にいい香りだった。話を聞きながら、クラクラしてくる。慌ててコーヒーの苦みで理性を保つ。こわいこわい。

「どんな配合だろ…」
 言葉が無意識に出る。

 彼は少し躊躇いながら話し始めた。
 ある日、彼は怒りを感じていたという。頭の中で怒りを反芻し、練りに練っていた。後輩が上司に理不尽に激高されていた時…何もできない自分のやるせなさ、後輩への罪悪感、上司への嫌悪…。

 世の中に対する絶望、毎日流れる暗いニュースが脳内をループする。次から次へと憎悪は膨らみ、練れば練るほど、発酵し、体内から香りが沸き立つ——。

 彼はある日気づいた。
 大口を開けて寄ってきた犬は、何年も鎖に繋がれ、外出できなかった。足を引きずりながら逃げてきたのだ。他の人々も同じだった。同じ感情を持つ者同士が、匂いとして引き寄せられる。

「だから…君も何か僕に話したいことがあると思って」
 彼はセンシティブな話題に踏み込んでいいものか迷っている顔をした。

 うざ、ただのいい奴じゃん。
 家や学校のことが頭の中を駆け巡った。残ったコーヒーに視線を落とす。ぐうの音も出ない。



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