第27期 #1
失敗した。
昨夜、玄関で冬美の顔を見た途端、俺はそれに気付いた。
「おかえりなさい」
いつもより低い冬美の声。
「あのさ、朝、電車に乗るまでは憶えてたんだ」
焦って少し声が上ずるのを咳払いでごまかした。言い訳を考えながら。しかし、飲み過ぎの頭はサッパリ動いてくれない。
冬美は声を荒げて俺を責めたりはしない。皮肉や嫌味も言わない。無視することもない。ただ、目を合わせなくなる。
「ごはん、食べる?」
後姿で静かに訊いてきた。酒を飲んできたのは一目瞭然だ。
「お茶漬けでいい」
そう応えてリビングに足を踏み入れた俺は、テーブルの上に所狭しと並んだ皿を目の当たりにして言葉を失った。ラップ越し、手付かずなのは見て取れた。
冬美は何でもない顔で、間続きのキッチンのやかんを火にかけた。そして、
「梅干茶漬けでいい?」
そう訊ねながら、テーブルの皿をキッチンへと片付け始めた。
「おまえ、食ったの?」
どんどん運び出されていく皿を見ながらのろのろと訊く。
「はい、お茶漬け。悪いけど、調子悪いの。先に寝かせてもらうわ」
冬美はそう言うと寝室に行ってしまった。
待てよ。少しくらい言い訳させろ。寝室に消えてゆく静かな足音を聞きながらそう思った。
朝、起こされると、いつものように朝食の用意がされ、洗濯物もベランダにきちんと整列していた。二日酔いの顔を映す洗面所の鏡には、くもりひとつない。
完璧な妻だと言っていいだろう。この不景気の時代にフルタイムで働き、家事も自分ひとりで引き受けてこなし、夫に一度も不平不満をぶつけてくることもない。
おかげで、結婚して丸2年、俺たちは一度もけんかしたことがないのだ。
そして、仲直りだって一度もしていない。
許しあうことすら知らずに、昨日、結婚3年目に突入したというわけだ。
それはそれで、めでたいと言えなくもないのだろう。
安穏な日々。悪くはないはずだ。
たぶん、今夜も俺は酔って帰る。
だから、黙って先に寝るなり、実家に帰って俺の悪口をぶちまけてくれ。
でなきゃ、今すぐこっち向けよ。なぁ、冬美。
「先、行くね」
背中を向けて、冬美が靴を履いている。
「冬美」
気がつくと、名前を呼んでいた。
「……え?」
ゆっくりと振り向いた冬美は、ぽかんとした顔をしている。
「今日は、早く帰るよ」
そう言うと、一瞬驚いたような顔をして、
「うん。行って来ます」
冬美ははにかむように微笑んだ。
「気をつけてな」
ごく自然に言葉を返す。
3年目の始まりだ。