第265期 #5
床に転がった目覚まし時計を見ると秒針が止まっていて、叩いても動かない。
スマートフォンの時計を見るとまだ朝の六時前だから、寝過ごしてはいなかった。
「今日未明頃、〇〇県○○市にある自衛隊基地に、中国軍による複数のミサイルが着弾しました。周辺の住宅地にもミサイルが着弾したという情報もありますが、詳しい確認は取れていません」
布団の中でスマホのニュースサイトを眺めていると、そんな記事ばかり。
俺は壊れた目覚まし時計を悼む儀式を三十秒で済ませたあと、歯を磨き、アルバイトへ出かけた。
俺の仕事はティッシュ配りで、時給は一二〇〇円。
バイト先の事務所には、ポケットティッシュが何百個も入った段ボールが山のように詰まれている。
アルバイトの人間は、その段ボールと一緒に車に乗せられ、人通りの多い駅や繁華街まで移動すると段ボールと一緒に降ろされる。
今日は駅で降ろされたから、そこでひたすらティッシュ配りをするだけだ。
駅には、「戦争反対」のプラカードを持った人と、「民主主義を守るために戦おう」というプラカードを持った人が、お互いに距離を置いて立っていた。
しかし周りの人たちは、あまり興味がなさそうに通り過ぎるだけ。
俺も彼らの邪魔をしないように、少し距離を取ってティッシュを配りを始める。
「政治プラカードの二人と、ティッシュ配りの俺との間にできた三角形の中を、人々が通り過ぎる」
なんとなく文学的な表現だ。
俺は昔、小説を書いていて、そういう文学的な表現を好んで使っていた。
今でも小説を書き続けていたら、今の状況をもっと上手く表現できただろうか。
「あの、すみません」
民主主義のプラカードを持った人が、突然話し掛けてきた。
「ティッシュ一つ貰えませんかね。鼻水が止まらなくて」
俺は少し驚いたが、アハハと愛想笑いをしながらティッシュを渡した。
しばらくすると、戦争反対のプラカードを持った人もつかつかとやってきて、ティッシュを一つ下さいと話し掛けてきた。
「さっき鼻をかんだらティッシュがなくなっちゃって」
アハハ、どうぞどうぞ。
その日から、俺は一週間ぐらい同じ駅でティッシュ配りをした。
戦争反対の人も、民主主義の人も、やっぱり同じ駅に立ち続けていた。
俺は、この三人で居酒屋へ飲みにいったらどうなるかを想像しながらティッシュを配り続ける。
この状況を小説にしたら面白いかもしれないなと、考えながら。