第262期全作品一覧

# 題名 作者 文字数
1 海辺の家 蘇泉 745
2 気候変動から地球を守るために、今すぐ行動を起こそう テックスロー 982
3 レッスン euReka 1000

#1

海辺の家

また理由もなく上司に怒られた今日の夏子は、「海辺の家に住むことができたら、全部解決する」と確信することになった。

確かに、夏子の職場は嫌な場所だ。短大を卒業して入社した夏子は、この会社で自由を感じたことが一度もない。経済的な理由で辞めるわけにはいかないが、そこまで嫌なわけでもない。

スマホの動画アプリで海辺の家の動画を見かけたのは、何かの救いになったかもしれない。生まれも育ちも海のない県で、大学は山の中。海は遠い存在だが、一度は見たことがある。一度でもいいから海が見える家に住みたいという願望を抱えていたが、「海辺の家、長期 賃貸 安い」という動画が目に入った。

「そっか、私でも住めるんだ」と夏子は気づいた。その現実味をもたらしたのはコロナ後の在宅勤務。「海辺の家でリモートワークができたら、怒っている上司も無能な部長も全部カニに見えるかも」と夏子は思った。「カニが増えても平気だから、この仕事を耐えられる気がする。」

その夢を実現し、夏子は初めての長期在宅勤務を申請し、同時に海辺の家を借りた。小さな家だが、その後、夏子は実際の会社から姿を消し、リモート会議のアイコンとして存在している。仕事に支障は出ないし、前よりも仕事ができるようになった。上司が怒り始めたら電波がすぐに悪くなる。本当に不思議だ。

そして半年が経った。リモートワークの社員が定期的に会社に出る期間が来た。半年ぶりに会った同僚は、夏子の海辺の生活について聞いてきた。「やっぱり快適な生活だった?」と。

夏子は答えた。「まあね、実際の生活は想像より全然パーフェクトじゃないけど、本物の背景はバーチャル背景よりずっと綺麗だし。」夏子は笑って言った。「思ったよりカニは少なくて、退屈を感じるときも多かった。それは意外だった(笑)。」


#2

気候変動から地球を守るために、今すぐ行動を起こそう

「心頭滅却俱楽部」出身だと聞いたからとんでもなくタフな奴だと思いきや、新しいバイトは三日目で来なくなった。
「心頭滅却倶楽部から来ました、柄木田育英(からきたいくえー)です!」
 面接で黒いスーツに身を包んではきはきとあいさつをしていた。名前の最後はよくわからない、いくえか、いくえいなのか。どちらとも取れる発音だった。
「女です!」
 と聞かれてもいないのに「いくえー」は続けた。センシティブな時代なのであまりそういうことには触れないでおこうと思ったが(じゃあ名前の読みはいくえかな? いやいやそうとも……)本人が女というのであれば就業上女性として扱うことが求められるだけで、それ以上の何かがあるわけではなかった。今どき女ですと自己紹介する人も珍しいなと思った。それよりも心頭滅却倶楽部が気になったので活動の中身について促すと、柄木田はそれまでのはきはきリクルートな表情を一変、無の表情を見せた。
「ははあ、耐性系ですな。ではそのまま外へ」
 いくえーは分かりました、とクールな表情で外へ出た。外気温は摂氏五十度を超える。俺は外に出る意味はないので部屋の窓からいくえーを見ることにした。照り付ける直射日光に向かって手をかざし、いくえーの腕や首筋から汗が噴き出す。そのうちにいくえーの口がぱくぱくと動き……あれは、「アネッサ」と、唱えている。
 ちょうど十分していくえーは部屋に入ってきた。汗をかいているがとても涼し気な表情だった。
それが、三日で来なくなった。最後の日、いくえーは太陽に向かって対峙し、一日中「アネッサ、アネッサ」と唱えていた。汗はスキニーパンツに染み込んだ。日の入り五分前にいくえーは「アネッサ!」と叫ぶとその場に倒れ、次の日から来なくなった。
 その日以来、朝焼けと、夕日の時間が長くなった。午前十一時くらいまで朝焼けで、その後太陽は流れ星のように西の空に逃げ、午後一時くらいからもう様子をうかがうように真っ赤になった。そんな夕日を見ていると、なんとなく、いくえーが女です、と自己紹介した意味が分かった気がした。夕日はずっとこっちを見ていた。俺は夕日に向かいかぶりを振り、いくえーはもう来ないよ、と言った。
庭に出ると涼しさを感じた。デッキチェアに腰かけウイスキーのロックを夕暮れに透かせながら、たぶん俺は今、無の表情をしているんだろうなと思った。


#3

レッスン

 私は三歳からレッスンを受けている。
 レッスンのときは裸で、幼い頃はそれが当たり前だと思っていた。
 でも十歳になった頃、私は裸じゃ少し恥ずかしいと感じ始めて先生に相談をした。
「そうですか……。あなたもそんな年頃になったのですね」

 次のレッスンの日、先生はレオタードというものを私に手渡した。
「まだ裸のほうがよいのですが、あなたの成長に合わせてこの衣装を用意しました」
 初めは体に密着するレオタードに縛られているような違和感があったが、レッスンを続けていくうちにそれが身体に馴染んでいった。

 しかし十五歳のとき、私は体のラインが見えてしまうレオタードも恥ずかしいと感じるように。
「そうですか……。でしたら次のレッスンは、あなたの恥ずかしくないと思う服装でいらっしゃい。恥ずかしいと思う気持ちはとても人間らしいことなのですよ」

 その後、私は私服でレッスンを受けることになり、最初はなんとなくレオタードに近いだろうという理由でTシャツと短パンを着た。
 でも冬の寒さを感じて、長袖のジャージを着てもいいですかと先生に相談すると、あなたがいいと思う服装でいいのですよと先生は、軽く微笑みながらもどこか遠くを見るような眼差しで私に言った。

「なぜできないのですか? あなたは馬鹿ですか? もう十年以上もレッスンを……」
 先生のレッスンはとても厳しいが、服装のことを相談するとなぜか緊張がとける。
「そのチェック柄のジャケットは素敵ですね。カジュアルで親しみやすく、モダンでクールな雰囲気もあって」
 二十歳を過ぎる頃になると、私はTシャツやジャージではなく、普通の外出着でレッスンを受けるようになっていた。
「それはパンクファッションというものかしら。素敵だけれど、あなたの年齢では少し浮いた印象になってしまうかもね……」

 ある日、私はお酒に酔った勢いで昔みたいに裸でレッスンに行ったら、先生が卒倒してそのまま死んでしまった。

 私は殺人の罪で逮捕され、五年間の刑務所暮らしをした。
 でもいま、私は春風に吹かれながら先生のお墓の前に立っている。
「あなたのレッスンはこれで終わりです。よく頑張りましたね」
 先生の墓石には、明朝体の文字でそう刻まれている。
「いつかあなたがわたしを殺しに来ることは分かっていました。人間でないあなたを人間にするために、ずいぶん悩んだのですよ。三歳のころのあなたはまだ羽が生えていて、緑色で……」


編集: 短編