第261期 #4
転がる石。どこかへ行く石。戻ってくる石。欠ける石。みんな、どこにでもある石。そこはどこなのか。空想なのか映像なのか。これは回避行動だ(専門的な意味ではないが)。私は疲れている。
一歩先に自然がある土地で人は(私は)何に癒しを求めるのか。ゾンビが蔓延る世界で堅牢な住宅を持つことは癒しだろうが、まだゾンビは存在しない。しかし住宅にはゾンビのような人間、つまり決まった行動を反復する(私を含む)家族がいる。幸福ではないのではない。幸福がミニマル・ミュージックのようであることが腑に落ちないのだろう(ミニマル・ミュージックへの理解が乏しいのだろうか)。
俳句のように世界を見るのはどうだ。
閑さや岩にしみ入る蝉の声 松尾芭蕉
(蝉が岩にとまっている。長閑だなあ)
蝉鳴くや我が家も石になるやうに 小林一茶
(蝉が我が家に呪いをかける。石になれと)
確かにこれなら漫然とした世界にびしりとピントが合う気がする(句の隣にあるのは私による口語訳だ)。だがこの解像度で日々を送れるのか。俳句も創作の一環となればそれ自体に労苦や懊悩が付き纏うのではないか。
いけない。やる前から否定的になっている。よくない思考だ。俯瞰で捉えよう。三人称だ。詠は(無論Aのもじりである)今の生活に倦んでいる。不満はない。仕事はある(給与もある)。贅沢は(ダサいから)しない。(国内の)学術芸術エンタメにアクセスできる。家族に犯罪者はいない(逆に秩序通報は二度している)。そうだ、近隣の治安が悪い(これまでに三度も面格子の間からガラスを割られている)。これが疲れの原因だろう。俯瞰的観点は重要だ。
警察はすぐに出動してくれる。対応も簡潔だ。しかし治安は悪い。馬鹿が多いのだ。教養とは何たるかを知らない連中だ。ゾンビだ。ゾンビが蔓延っている。ならば堅牢な住宅に引き籠もるのが賢明だろう。蟄居して教養を深めようではないか。
石にとまつて蝉よ鳴くか 種田山頭火
(蝉よ。石を舞台に演奏だ)
風わづかに石の上なる蝉の殻 尾崎紅葉
(終演後、蝉は衣装を乾かした)
石の上の熊蝉の殻消えゐたる 加藤秋邨
(なんと衣装が盗られている)
生害石空蝉すがりかなしけれ 山口青邨
(蝉は悲しみに暮れた)
この連作は洒落た訳だと自負している。こうして俯瞰すると、私は蝉のイメージに拘泥している。
(転がる石。どこかへ行く石)だめだ。まだ疲れたままのようだ。