第26期 #1

日が暮れても

 「一ヶ月ですね。もう少しいい薬を使えばあと一年は持つと思いますが」
 医者というのはどうしてああも残酷になれるのだろう。あるいは残酷でなければ医者にはなれないということなのかも知れない。死んだように眠っているのか、眠っているように死んでいるのか、にわかには判断出来ない悟の顔を見つめ、順子は目を伏せた。銀色の支柱に吊り下げられた瓶から一滴ずつ変わらぬペースで落ち続けている薬液の音が今にも聞こえてくるような気がした。
 円椅子に座った順子は向き直り、、悟が身体を横たえているベッドに背を向けた。ガラス窓には見知らぬ女の顔が映っていた。瞬きをすると、それは自分の顔になった。
 「ごめんな」
 「いいのよ、だって今の状態で産んだって子供も私達も不幸になるだけよ」
 「もう少し貯金があればなぁ」
 「ないもののことで嘆いても仕方ないでしょ。あと少し我慢して働けば、きっとまた幸せがやってくるはずよ」
 二年前の夏に悟と交わした会話がふと脳裏を過ぎる。順子は深い溜息をつき、冷たく艶やかな窓に手を触れた。
 「来てたのか」
 悟は順子の背中へ眠たげな言葉を投げた。順子は振り向きざま、とっさに笑顔を作った。
 「起きたのね」
 「何を見てたんだ?」
 「空よ。青くてきれいな」
 「今日はいい天気だったものな」
 順子は込み上げてくるものを抑えることが出来なかった。笑顔が泣き笑いの顔になり、やがて本当の泣き顔になった。今まで悟の前では一度も見せたことのなかった涙が頬を伝い、膝の上に乗せた左手の甲に落ちた。
 悟は黙って順子を見つめ、その後ろの暮れかかった空を眺めた。
 順子のすすり泣きはなかなか止まらなかった。止めようとするとかえって涙の量が増えた。
 悟は何度か深く息を吸い込んだ後、天井へ視線を戻した。そして優しく沈黙を破った。
 「きれいだ」
 微かな、しかしはっきりとした語調だった。
 「いきなり何の話よ」
 順子の声は震えていた。
 「きれいだよ」
 悟は点滴をしていない右腕を動かし、目の前に手のひらを差し出した。順子はそれを両手で受けた。大きく温かい手だと思った。その手を涙で濡れた頬に当てたら、心の真ん中にほんの一瞬だけ「幸せ」という言葉が浮かんだ。
 ドアの向こうから乾いたノックの音がした。二人はどちらからともなく手を離した。悟の腕は力なく白いシーツの上に落ちた。
 点滴の瓶は、いつしかもう空になっていた。


Copyright © 2004 戸田一樹 / 編集: 短編