第25期 #4

椿

 小糠雨の街道沿いの旅籠に、行き倒れの女が運び込まれたのは、暮れ六つのことだった。連れてきた男は、もう長くないと首を振りそのまま宿を発った。死にかけているのを放り出すわけにもいかず、納戸を片付け布団を敷き、末の娘に看病を任して、家の者はそれぞれ仕事に戻っていった。
 娘は恐る恐る女の顔を覗き込む。年の頃なら27、8、粋筋の垢抜けた風貌だった。脂汗のにじむ額は青白く、眉根を寄せて目をつぶり、苦しげに開いた唇の紅が、凄絶に美しい。
 娘は手拭で額を拭いてやった。そのうち、女がふと目を開く。
 熱のせいですずをはったような目が、水の湧くかと思うほど潤み、娘は手拭を握り締めたまま見とれた。
 「姐さん…」
女がかすれた声で呼びかけた。
 「世話になるねえ、姐さん。手を煩わせて悪いけど、そんなに長くもちゃしない」
そう言うと、一度深く息を吐き出した。
 「…そんな事…」
 「いや、いいのさ。自分の事は自分が一番わかっている。ヤマを踏む度、この命を捨ててきたんだ。さしたことじゃない。それでもさ、蝶よ花よと歌われたこのあたしがこんなところで死ぬのかねえ。まったく、一生なんて、終わりがこなきゃわかりゃしない。その上、終わりがきた時にはもう遅い」
女はそこで一度言葉を切った。
 「少し休まれたら…」
と娘は言ったが、女はゆっくり頭を振った。
 「もうすぐ長い休みが来るさ。それよりあんたみたいな器量よしが最期を看取ってくれるなんて、あたしも少しは浮かばれる」
女は手を伸ばし、娘の手を握った。それは飛び上がるほど冷たく、命が消えかける様を娘に伝えた。
 「姐さん、こんな女の言う事だけど、しっかり聞いておくんない。あんたは間違えちゃいけない、この先、鏡に、あたしの顔が浮かんだら、それは道を間違えてる。あたしみたいになっちゃいけない、落ちる先に底なんかありゃしない、いいかい、あんたしっかり胸に刻むんだよ…」
言い切るなり、女の瞳からすっと光が抜け、娘の手の中にぱたりとその腕が落ちた。
 
 小糠雨の庭に、何かがぱたりと落ちた。女が立っていくと、それは椿の花だった。大きく抜いた襟元に、後れ毛がかかり、白いうなじに一種墨絵の川を描いている。紅の椿を手に取り、まだ綺麗なのにと呟きながら、櫛巻きの髪を直そうと鏡を覗いて、息を止めた。思わず握り潰した椿の花の、花芯の黄色が手にこびりつき、どんなに擦っても落ちはしない。



Copyright © 2004 長月夕子 / 編集: 短編