第25期 #31

燃えていく

「昨日の女は、実に美しいバストを持っていたな」
 私は白いロウを手に取り、枕元の黒板で計算をする。枕元には大きな黒板が置かれていて、そこはロウで描かれた数式や図形、記号、グラフなどが埋めている。
「無駄だよ」
 彼が言う。彼はいつの間にか起きていた。つまらなそうに黒板を見つめ、金髪をかき上げる。
「そうかな、無駄かな」
「ああ」
 半裸のまま、彼はいつものように手だけを器用に使い、ベッドから車椅子へ降りる。
「無駄だよ。何度も計算したんだ。昨日、何度も何度も計算をし直したんだ。間違いは無いよ」
「そうか」
「ああ、もう計算し直してもなんの意味も無い」
 空は明るく晴れていた。私はロウを仕舞い、乱れたシーツを直す。彼はぎしぎしと車椅子を鳴らして台所へと消える。空は明るく晴れていた。いつも通りの青空。散歩日和であった。彼が朝食を作る。綺麗に整った、いつもと同じメニューの朝食。一緒に食べ、そして車椅子を押してやり、私達は出掛ける。
 公園にはベンチがあり、そこには男と女が居た。女は片手で大きなコートの襟元を、もう片方の手で男の腕をしっかりとかき抱き、くすくすと笑いながら私達を見ている。男は黒いサングラス、そして黒いヘッドフォンをしていた。太いカールコードが、のろり、と伸びた、巨大なヘッドフォンであった。
「この世には聞かなければならないことが、沢山あるなあ」
「全くだ」
 女はベンチから身を乗り上げ、私達を小馬鹿にしたような表情のまま何かを話しかけてきた。彼女はどうやら聴覚障害者のようで、激しく手を動かし、口をばくばくと動かしている。男はただ黙ってヘッドフォンで何か音楽を聴いている。ぎしぎし、ぎしぎしと音が漏れている。もしかしたら、音楽では無いのかもしれない。彼が聞いているのは、音楽では無いのかもしれない。
「確かに、この世には聞かなければならないことが沢山あるな」
 彼が言う。確かに、この世には聞かなければいけないことが沢山ある。
 公園の真ん中では、遊具に囲まれて、白い人形が燃えていた。
 私達は散歩を続ける。車椅子がぎしぎしと鳴る。懐にその細い手をゆっくりと伸ばし、取り出した煙草に彼は火を付ける。青空へ頼りなく消えていく煙草の煙。
「一本くれよ」
「良いよ」
 私達は散歩を続ける。海岸線にはピアノ、草原にはイーゼル、駅のホームには水の無い水槽があった。ギターがどこかで倒れ、がああん、という音が駅に響き渡る。



Copyright © 2004 るるるぶ☆どっぐちゃん / 編集: 短編