第25期 #23
「さっさと着替えないと遅れちゃうぞ」
朝食の皿を片付けながら、シデハラは言った。真奈美はぼんやりテレビを眺めていた。
「マナちゃん、保育園は何時にはじまるの?」
「9じ」
「いま、何時?」
真奈美は時計を見上げてしばらく考えた。
「うんとね、8じ41ぷんと42ふんのあいだ」
「よろしい。では、急ごう。ちゃんと顔を洗って、頭をとかして、ハンカチちり紙も忘れずに。いいね」
ピアノの上に立てかけてある智子の写真をちらりと見て、シデハラも出かける仕度を始めた。妻は二年前のある朝、突然いなくなった。何の前触れもなかった。書き置きもなかった。鍋を火にかけたまま失踪したりするもんだろうか。
真奈美は着替えを済ませ、鏡の前に座っていた。妻は、暇さえあれば鏡の前で真奈美の髪をとかした。真奈美も妻に似て縮毛だった。一日になんども丹念にとかし、根元をゴムで結わえた。
「くりくりして、西洋人形みたいでかわいいじゃないか」
シデハラがそう言うと、妻はよけい気にした。いくらとかしても、縮毛が直るわけではなかった。ことに寝起きはひどかった。
シデハラは鞄の中身を確かめ、寝室でネクタイを締めた。妻の失踪後、シデハラは自ら願い出て講師になった。偏差値の低い女子大とはいえ、三十代半ばで助教授になる者はあまりいなかったのだが、妻が戻ってくるまでは、なんとしても娘を自分の手で育てるつもりだった。
台所からぶくぶくと泡立つ音が聞こえてきた。真奈美が顔を洗っているのだろう。シデハラは車庫に行ってエンジンをかけた。
「じゃあマナちゃん、行くよ」
返事はなかった。
「おーい、マナちゃん、遅れるよ」
台所からは泡立つ音が聞こえるばかりだった。ほどなくして、刺激臭がシデハラの鼻を突いた。
台所に駆け込み、流し台から小さな身体を引き離したが遅かった。真奈美の頭は、半分とけていた。シデハラは洗面器の傍らに転がっていた容器を手に取った。
「これはまさしくママが使っていた縮毛矯正剤、配合を間違えると大変危険です」
まだ不穏に泡立っている洗面器に指をつけると、第一関節から先が、すっととけた。シデハラはとけた指で膝を打った。そうか、智子は失踪したのではなく、とけてしまったのだ。
時計を見上げた。8時55分だった。
「マナちゃん、急げばまだ間に合うよ」
半分しかない頭にヘルメットをかぶせ、シデハラは真奈美をハーレーデイビッドソンのサイドカーに乗せた。