第25期 #13

青を纏って

窓を開けると、冷え冷えとした空気が刺すような勢いで流れ込んできた。空調の効きすぎた部屋の中はいつの間にかもやもやした熱気に満ちていたらしかった。
この街でも一番のスウィートですよとボーイが自慢するとおり、このホテルは確かに居心地がよかった。海外で日本以上のサービスを受けることはなかなかない。あらゆる手段を使って一週間もかけて探していた。さすが妻の目に狂いはなかったということか。
何となくそうしてみたくて、私は窓を大きく開け放ったまま、目の前にそびえるマッターホルンにむかって杯をかざした。一生にそう何度も出来る贅沢じゃない。
さすがに窓を開け続けているには寒すぎて、でもその景色から目を反らすことが難しく、閉じた窓越しに街を眺めた。後で開いた妻の日記には「麗しの青いツェルマット」とあった。なるほど。街にこぼれる夜の灯火が雪に反射して青白く輝いている。
寒い街だ。けれども美しい。
高額な国際電話であるにも関わらず、あの時この街から私にかけてよこした妻の言葉ときたら、情緒もなにもあったものじゃなかった。
「マッターホルンは、横になった外人さんの顔みたいね」
驚いて私が聞き返すと、「外人さんの鼻って、横になってもキョンと高くてそっくりでしょ」と笑った。そうかもしれないと思わず思い、東京から声を飛ばして私も笑った。
快適に整えられた空調の中、妻に匹敵する珍妙な例えはないものかと思いながら私は眠りにつく。

翌日、モーニングコールの鳴る前に目覚めて支度をした。どこへ行くのかと聞くボーイに、あの山だよ、とだけ答える。指さす先にはマッターホルンが悠々とそびえている。あまりにも軽装過ぎるとボーイは言ったが、私は笑い返す。「大丈夫、妻だって同じ姿だったんだから」ボーイはあきれたようだった。
見れば見るほど切り立った厳しい山だ。私は防寒着の胸元を押さえた。
お帰りの際はまたこのホテルへ、とボーイは言ったが、私は答えなかった。妻は必ず私を見つけるという自信があるからだ。

妻が好み、妻が美しいと言ったこの街の青。妻と同じ服。
妻は間違いなく私が纏ったこの青を見つけ出すだろう。氷の中でも雪の中でも。
妻はここでいつまでも私を探し続けていて、私もまた、妻を探すためにここまで来たのだから。



Copyright © 2004 広田渡瀬 / 編集: 短編