第249期 #6

面白い話

 なんか面白い話してみてよ、というと、男は息子の野球大会に行った日のことを語りだした。それは海から少し離れた工業地域の合間にあるグラウンドで行われた、小学生を対象にした野球大会で、しかし参加チームは6チームのみのこじんまりとしたものだった。男は家族と持ってきた椅子に座り息子や同年代の子どもたちがぎこちなくプレーする姿を見ていた。天気は曇りだが、雲の向こうにぼんやりと太陽の輪郭がわかるくらいで、六月にもかかわらず湿気はなかった。保護者達は自分も含めて応援にはあまり熱が入っておらず、しかし周りに特にほかに何もないため、自分の子どもが出ない場面でもフィールドに視線を向けていた。風は心地よく、雲の向こうから差す日が温かく、雨も降りそうにもない。男は昼ご飯を食べた後ということもあり思春期前の子どもたちの掛け声を子守歌に眠ってしまった。
 危ない、という声で目が覚めると、ファウルボールが転がりながらこちらに向かってくるところだった。とっさに伸ばした左手をはじいたボールは後ろに転がり、少年のすみませんでした、という声が遅れて届いた。じんと痛む左手の手のひらを振りながら問題ないことを伝え、集まっていた視線を散らした。試合は中学生のような体躯で速球を投げる少年が所属するチームが他を寄せ付けず優勝した。表彰式が行われる夕方になっても雲は晴れず、しかし過ごしやすい一日だった。
「いい一日だったんだね」
「そうなんだ。いい一日だった」
 左手は大丈夫だったのかい? と聞こうとすると同時に男はテーブルの下から左手を持ち上げてテーブルの上に置いた。置いたというのは違った。男の左腕には手首から先がなかった。いや、なかったなんてことは前から知っていた。それがどれくらい前だったのだろう。この男に子どもができる前だったのだろうか、それはいつだろう。目の前で笑うこの男はそもそもいくつなのか。そしてなぜ笑っているのか。ただそれを指摘するとおそらく男は笑顔を顔ごと消してしまうだろうということはなんとなく分かっていた。部屋の空調はちょうどよかった。
「今日もちょうどいい温度だね」
「ああ、ちょうどいい塩梅だ」
 男は面白い話をし終えた後に人が見せる満足気な笑みを崩さずこちらを見ていた。私は男に気付かれないようにうつむいて男の左手首を見ていた。それはとてもリアルな空っぽだった。



Copyright © 2023 テックスロー / 編集: 短編