第248期 #3

一時的な幸福ほど不幸をもたらすものはない。
二十三歳の奈々子は、いつだってそう思って生きてきた。

それに気づき始めたのはたぶん、幼い頃、家族で海に行った日の帰り道。
楽しい時間には必ず終わりが来る。海に来なければ、帰りたくない気持ちにもならなかったのに。
車の後部座席で泣きじゃくる奈々子を、母は優しく抱き寄せた。
「また来年来ようね」
運転席の父は、優しい声で慰めの言葉を口にした。
父の好きなスピッツの「楓」が車内に響き、切なげなメロディーが幼い奈々子の寂しさを煽った。

確信に変わったのは十六歳のときだった。
父が出張先で倒れ、三十九歳の若さで亡くなった。しっかり者の母が、来る日も来る日も泣き続けた。
父が誠実で優しい人でなかったら。母と奈々子を心から愛する人でなかったら。こんなにもかけがえのない人でなかったら。今、一生分の涙を使い果たさずに済んだのに。
幸福は怖い。当たり前の幸福に浸されるのは怖い。それが当たり前でなくなったときの不幸は、あまりに大きいものだから。
ぼーっとしていることが増えた母を見て、奈々子の確信は深まっていった。二十年を共にした二人がどれほど愛し合っていたのか、それを考えることすら恐ろしかった。

十八歳のとき、奈々子は初めて男の子を振った。
大学生。父と母が出会った年頃だった。
「なんか、付き合ったり……、将来のこと考えたりするの、怖くて」
そう言うと、相手の男子は肩をすくめた。
わたしがおかしいのだろうか。
奈々子は何度も考えた。
勉強も人付き合いも頑張ってきたつもりだ。しかし心の奥底にある、幸福の分だけ不幸を味わうのではないかという恐怖心が、時折奈々子を臆病者にするのだった。

二十三歳のとき、職場の同期からプロポーズされた。
半月前に彼の二回目の告白を断ったとき、奈々子は初めて両親の話をし、幸せになる勇気がないのだと伝えた。彼は真剣に耳を傾け、話してくれてありがとうと言ってくれた。

「どんな不幸にも負けないくらい幸せになろう」
それが、彼なりに精一杯考え抜いた答えだった。奈々子は困ったように苦笑いをしながら、少し涙ぐんだ。

翌日、奈々子は久しぶりに実家に帰った。
夫が去り、娘が出て行った家で、母は手作りのハーバリウムを所狭しと並べていた。
食卓に置かれた父の遺影に、「カズくん、奈々子が帰ってきたよ」と笑いかける母の笑顔は幸福そのもので、奈々子はようやく彼への返事を決断することができた。



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