第246期 #8
荷台から視力検査器を下ろし、ランドルト環から五メートルの位置に白線を引き、車のまわりに「めがね」の幟を立てれば準備はもう終わりだった。ラジカセから流れる音楽に集落の誰ひとり反応する気配はなく、樹上から様子を窺っていたカラスだけが車のすぐ近くへ着地した。たとえ鳥の一羽であっても誰も近寄らないよりは良いだろうと、順太は菓子パンをちぎって放り投げた。残りのパンを朝食とする。
商売っ気を出さずに鳥と遊んでいれば、警戒心を解いた誰かが車を訪れるかもしれない。そのときには時間をかけて説明する。長年勤めた眼鏡店をやめて開業し、山あいの集落を車でまわり視力検査をしていること。必要があれば眼鏡を作り、あとで届けに来ること。代金は後払いで構わないこと、などを丁寧に伝える。こんなにのんびりと仕事する行商の眼鏡屋はきっと自分くらいだろう、でも、気長に構えるしかないと順太は考えている。鳥の餌付けのように何かを撒いて客を呼び寄せることはできない。呼び寄せたところで眼鏡が飛ぶように売れるはずもない。昼を過ぎてもなお、車に近寄るのはカラスだけだった。朝一番に菓子パンを投げたきり餌はやっていない。それとも欲しいのは眼鏡か。高所から獲物を見つけ出せる、視力が良いはずのカラスに眼鏡が必要だろうか。必要だとしても商品を渡すわけにはいかないから、追加の菓子パンをちぎって放り投げ、残りをおやつとする。
幟から長い影が伸びる頃にようやく、ひとりの老人が「よお」と言って来訪した。荷台に腰かけて本を読んでいた順太は立ち上がって会釈する。車から何歩か離れた隙をついて、樹上から舞い下りたカラスが素早く荷台へ飛び込む。羽音に気付いて順太が振り返ったときには、眼鏡フレームをくわえたカラスがすでに飛び立っていた。しばらく口をあけて空を見上げていた順太と老人は、やがて顔を見合わせると溜息をつきながら静かに笑い合った。少し離れた電柱のてっぺんに、木の枝やハンガーで編まれた巣があるようだった。眼鏡フレームを編み込んでさらに補強された巣で、かわいい七つの子が育つのなら悪くはない話だ。あきらめた順太と老人は荷台へ腰かけて話し始める。たとえば車を真っ黒に塗ってカラスの眼鏡屋さんと名乗り、人間の目にも良い眼鏡だけどカラスの生活にも少し役立つと宣伝する、そんな商売の方法はどうでしょうか、売れないだろうな、と二人は日が暮れるまで話し続けた。