第245期全作品一覧

# 題名 作者 文字数
1 ハイブリッド翻訳通訳機 蘇泉 783
2 即席小説 Dewdrop 245
3 雪降る復讐 栗子 664
4 はじめての料理教室 吟硝子 500
5 ホットケーキ忍者 アドバイス 608
6 鶴恩返 党豪傑 121
7 動物園 テックスロー 989
8 宇宙駆逐艦ヨアケ euReka 1000
9 降霊夜 蝸牛 1000
10 それでも僕らは廻したい 朝飯抜太郎 1000
11 家庭教師とソラと雪 霧野楢人 1000

#1

ハイブリッド翻訳通訳機

トニー君はスーパーグローバル大学創成支援事業を通して日本に留学しに来ている。彼は日本語ができない。大学では100%英語で授業をやっている。トニー君の日本語レベルは、飯屋で注文できるくらいだ。いつも「これ、これとこれ」で定食屋でご飯を食べている。
トニー君は英語の授業をたくさん取っているが、日本にはやはり興味があり、日本語の授業も取りたいと思っている。しかし日本語の授業を理解できる能力なんか持っていない。そこで、トニー君は大学の先端技術研究室のK博士のところに来た。
トニー君は、日本語でやっている日本文化の授業を取りたい、でも日本語が分からないという旨をK博士に伝えた。
K博士はまだ開発中のハイブリッド翻訳通訳機をトニー君に渡した。
「これがあれば、教授の話をすぐ液晶に表示されるし、翻訳される。君がレポートを出すとき、これを使ってもよし。双方翻訳可能だから。」
トニー君は喜んで、ハイブリッド翻訳通訳機を持って日本文化の授業に出た。
しかも本当に使えるものだった。やや難しい日本文化の話でも、ハイブリッド翻訳通訳機で翻訳できる。
期末のレポート、トニー君は英語で書いて、ハイブリッド翻訳通訳機に入れて、その日本語訳を教授に提出した。なんとB判定をもらった。トニー君は大喜び。
一学期でお世話になった日本文化の教授にお礼を言いたくて、トニー君はその日本文化の教授に感謝のメールを書いた。今回もまたハイブリッド翻訳通訳機を使って日本語へ翻訳した。
しかし、翌日、日本文化の教授からすごく怒りの返事が来た。
「メールで敬語使わないものはもう会わない!」
トニー君は戸惑って、K博士のところに来た。
事情を説明したら、K博士はトニー君に謝った。
「ハイブリッド翻訳通訳機は学術専用なので、『だ・である』しか書けないよ。敬語やビジネスメールの書き方はハイブリッド翻訳通訳機に入れてないなんだ。」


#2

即席小説

 まず、カップのふたを開けて下さい。
「何だコラア!」
 いきなり、中から怒声が飛んできました。
 中には、男性がひとり入っています。とても心が乾いていて、カリカリしています。
 それでは、子猫を一匹、渡してあげて下さい。
「何のつもりだオイ? そんなもの寄越すんじゃねえ!」
 険しい声にめげず、ミューミューと鳴く、人なつっこい、愛らしい子猫を渡してあげて下さい。
 そしてふたを閉じて、三分待ちましょう。

 ……はい。三分経ちましたので、ふたを開けましょう。
 面(めん)がやわらかくなりました。

(了)


#3

雪降る復讐

俺は多分、人から羨まれる人生を送っている。優しい親も友達も休みを共に過ごす異性もいる。俺の人生はそう。今だって。なのに、この胸のざわめきはなんだ?あぁ、あれだ。あれを墓場まで持っていくことを辞めたせいだ。秘密を、打ち明けたせいだ。
桜が満開になった頃、俺は偏差値の欄に68の数字が書かれているこの高校でいわゆる「青春」の謳歌を始める。俺との休みを過ごせるチケットは常に完売していた。すぐに花も枯れ、季節は冬になった。12月某日、俺は初めて一人で帰った。幾度も通った道でも一人だとなんだか新鮮な気持ちにさせられる。少し体を弾ませながら前へ進んだ。あれ。慣れぬ事はもうしまい、と天に誓い来た道を戻ろうと身体を捻ると深緑の大きな木々に囲まれた中の『お菓子の家』と書かれた看板と目があった。看板の通り家がお菓子で出来ている。屋根がチョコ。これは建築基準法的にどうなのかと思いながらグミ製の取っ手を引く。マシュマロだらけの部屋は甘ったるい匂いが充満していた。出ようとすると戸には"秘密を話ぜ”と書かれていた。俺は昔の事を話した。5歳の頃、隣に住んでいたおじさんを眠らせた。鈴蘭の葉に毒があると知らず緑茶にふざけて混ぜた。警察官の父は自殺ということにさせ、事態を大きくしなかった。戸に向かって話し終わると後ろに同級の雪が居た。雪は確か、昔隣に住んでいた。「あきらくん。」呼び掛けを無視して必死に走った。その後はもう、覚えていない。
次の日、俺の机にクローバーが置かれていた。雪だろう。俺はもうこの人生を楽しむことは出来ない。きっと彼女も。


#4

はじめての料理教室

 朝、起こしに行ったら夫が冷たくなっていた。還暦祝いで二人でとっときのお酒をのんで、またしばらくは三歳ちがいねと笑いあった、そのほんの十日後のことだった。

 あれこれ手続きを済ませるなかで、解約する前にとスマホの通話履歴を確認していたら、料理教室からのLINEを見つけた。通っているという話は聞いていなかったけれど、もともと好きなことを好きなようにする人だったし、履歴を遡ってみたら、先生は夫と親しくしていた同僚の息子さんで、料理を覚えたいがどうすればいいか分からない、とぼやく夫に紹介してくださったらしい。トーク履歴はふた月ほど前から始まっていた。
 半年前わたしたちは二歳ちがいで、わたしはまだ仕事をしていた。職場の健康診断でひっかかって、精密検査を受けて、余命宣告を受けた。あくまで統計上の平均値ですが、と前置きされて告げられた時間は一年だった。

 できるだけ早く再婚してね。ご飯も炊けない人を遺してなんておちおち成仏もできないわ。

 思っていたより早いけど終活しなきゃね、と言ったわたしに馬鹿、とだけ答えた夫はあのときどんな顔をしていただろう。
 目を伏せていないで、ちゃんと見てあげていればよかった。


#5

ホットケーキ忍者

ホットケーキ忍者はホットケーキを手裏剣みたいに投げるんでござるよ
って、なんでこっちまでござる口調になってるんだか…(汗)
気を取り直して!
とにかく、ホットケーキ忍者はホットケーキを手裏剣みたいに投げるんでござる!
ってなんで同じ失敗を繰り返すかね〜
これじゃ無限ループだよ無限ループ〜
よし、三度目の正直!
って、ちょっと〜?
いま二度あることは三度あるなんて思ったのは誰だ〜?
お見通しだぞー!
あ〜あ、まったく!
それじゃ、いきますかね
って、あ〜もう変なこと言うから緊張してきちゃったじゃん〜
落ち着け落ち着けいつも通りいつも通り
ホットケーキ侍は
って、ちょっと待って!
今のは違う違う違う!
もうー ござるに引っ張られちゃったよー!
もう最悪ー
侍は手裏剣なんか投げないじゃんね!
やだー

通された部屋では何者かの声が爆音で響いており、鼓膜を劈かれそうになった私は反射的に耳腔に人差し指を押し込んだ。そして振り返ると、先程まで入り口としてあったはずのドアは忽然と消えており、現在私を取り囲んでいるのはコンクリート打ちっぱなしの壁、床、天井、そして左右に二基並ぶ巨大なスピーカーのみであった。まったく意味不明で凄惨な仕打ちであったが、しかし私自身、それだけのことはされて然るべき心当たりがいくつかあったため、まあしょうがないかなという感じはあった。


#6

鶴恩返

僕大学院生二年
卒業近、修論締切近
全然書無
悩最中
飲屋一杯、帰途中鶴居
鶴怪我様子、助、一緒帰宅
「寝室休憩、見駄目」鶴語
寝室内電脳鍵盤音有
鍵盤続、好奇故、寝室覗
鶴電脳使、鍵盤入力中
鶴驚、窓経由帰
電脳見、修論完了、完璧
御陰無事大学院修了
此是令和鶴恩返


#7

動物園

 動物園の隅のほうで見たことのない動物がうずくまっていた。正確に言えばフードコートとトイレのちょうど間にある檻の中にその動物はいた。日陰になる部分で檻なのかゴミ捨て場なのかぱっと見ではわからないような場所であった。通りすぎる家族連れやカップルの誰もそれに気付いていないようだった。私はそういった家族連れの一人で、何もなければその檻に気付くことはなかったのだが、尿意をもよおした息子をトイレに連れていき、携帯を操作しながらフードコートの横の自動販売機でコーヒーを買うときに流れてきた獣の臭いでそれに気付いた。
 四肢はあり、毛むくじゃらだった。美容院で切り落とされた髪の毛を三日分集めればこれくらいになるのだろうかっと思わせるような黒い量の塊だった。寝転んでいるのだが、それが仰向けなのかうつ伏せなのかも、暗い檻のせいでよくわからなかったが、直感でその動物が眠っていないことは分かった。それに気づいたのか、動物は一瞬こちらに白い眼を向けようだった。トイレから戻った子供に手を引かれその場を去った先に「キリン・ライオン こちら」と書いてあり、私たちはそちらに走った。
 キリンは悠然と足を延ばして、コンクリートで固めた厩舎から出てきた。ライオンはメスもオスも眠っていた。サイも眠っていた。レッサーパンダは人気者で、とことこと通路を歩いて出てくるのが愛らしかった。アシカは餌を取り合って水の中にダイブした。持ってきた弁当を広げて食べ、フラミンゴを見て、コアラやカンガルー、トラ、チーターを見るともう夕暮れが近かった。
 私たちはたくさんの動物を見て満足だった。晩御飯はハンバーグがいいと、肉食獣のようなことを言う息子を肩車しながら漏斗の水のように帰路に就く人たちに混ざって出口に向かった。
「ああー、あれ、パパみたい」
 肩車した息子が指さす方向を見ると、忘れていたあの動物がいた。陽の角度が変わって檻の中には西日が差し込んでいて、そこには一匹の熊がいた。熊は朝見た時よりも陽を浴びて健康そうだった。それがうろうろと狭い檻の中を歩き回っていた。檻の前には少しの人だかりができていて、それが少し私を満足させた。ただ、神経質に歩き回る姿が自分に似ているのかと少しがっかりしたが、
「大きくてかっこいい」
 と息子が言ったのを聞いてうれしくなった。ガオーと息子を高く掲げると熊は一瞬止まってこちらを見た。


#8

宇宙駆逐艦ヨアケ

 廊下の奥に軍服を着た男が立っていた。
 薄暗くて顔がよく見えず、少し怖い気持ちだったが、私は廊下を通り抜けなければならない。
「おはようございます、艦長」
 忍び足で廊下を通り過ぎようとする私に、軍服の男は挨拶をした。
「いよいよ今日は、宇宙駆逐艦ヨアケの出航ですね。艦の名にふさわしく、空も朝日で輝いております」
 男の話によると私は軍の少佐で、宇宙駆逐艦の艦長らしい。
 まるで昔のアニメみたいだなと思いながら男の顔を見ていると、急にお腹が痛くなって、私はすぐ近くにある便所に駆け込んだ。
 用を足し、ほっと一息つきながら便所を出たら、廊下が急に未来的なデザインに変っており、窓には宇宙のような景色が広がっている。
「艦長! 作戦会議にも出ずに、いったいどこへ行っていたのですか!」
 今度は軍服を着た女性が、赤い顔をしながら私を怒鳴りつける。
「あと三分後に出航です! 早くブリッジへ来て下さい!」
 軍服の女性は、私の腕を引っ張って艦のブリッジへ連れて行き、艦長席に私を座らせた。
 ブリッジには、廊下で会った軍服の男や、計器類の前に座っているクルーが何人かいた。
「艦長、早く出航命令を! もう予定時刻から三十秒過ぎています!」

 宇宙駆逐艦ヨアケは何とか出航したが、目的空域に到着するまで一週間かかると言われた。
 私は暇でしょうがなく、艦長席のモニターでアニメを観ていたら、軍服の女性にまた怒られた。

「艦長、前方から敵艦が急速接近しています!」
 レーダー監視のクルーが突然そう告げると、ブリッジが一気に緊張し、艦内に警報音が鳴り響く。
「艦長、攻撃態勢の命令を!」
 軍服の女性はそう言うが、これって本当の戦争なの?
「そんな冗談はやめて下さい! 一刻を争う事態なのです!」
 逃げることはできないのかなあ?
「これだけ接近されたら、逃げることは不可能です!」
 じゃあ、話し合いは?
「それは政府のトップが決めることで、軍の命令で動いているわれわれがやることではありません!」
 本当にそうかなあ? だって人間同士なら話し合えば分かることもあるし、本当に死ぬかもしれない状況で、政府も軍も関係ないでしょ。
「敵は宇宙人で、人間ではありません!」
 でも、彼らだって知能や言葉があるから宇宙戦艦なんか作って戦争をするわけでしょ。われわれ人間と同じじゃないですか。
「今は、そんな哲学的な問答をしている状況ではありません!」
 そうかなあ?


#9

降霊夜

 ふとしたはずみで、死んだ女の部屋に寝泊まりすることになった。
 中学の同級生の矢崎から突然の連絡があり、飲まないかと誘いかけるので、こちらは抗鬱剤の厄介になっていて禁酒なんだと、いったんは断ったものの、相手の言葉には露骨な威嚇が感じられ、結局は応諾していた。好奇心もあった。いじめられっ子の矢崎の顔立ちはよく覚えていて、あのひ弱な餓鬼がどういう料簡でこちらを脅かすか、という怒りもあった。
 居酒屋に現れた矢崎を見て、得心がいったものだ。五十がらみの金髪男が店内を睨めつけ、筋肉の張った肩を揺すり近づいてきた時、その暴力団風の、いや、明らかにその筋の男が、矢崎だとすぐに分かった。目の奥の怯えた光が変わっていなかった。その光がこちらに近づき、正面に居座った時、相手の唇の隙間からおのずと溜息がもれた。頼みがあるんだ、と、挨拶も前置きもなく矢崎は言った。疲れた声だった。
 そこから案内されたのがこの部屋というわけだった。神田川沿いの古いアパートとは思えないほど小奇麗だった。一週間だけでいい。むろん出勤の間は不在にしていい。調度品は自由に使え。電話にもインターフォンの呼び出しにも出るな。一週間後に出る時、鍵は川に捨てろ。
 何だ、何のアリバイ工作なんだ、と訊くと、矢崎は半笑いを浮かべ、女、とだけ言った。
 それが三日前のことだった。依頼にどういう意味があるかは分からなかった。匂いはあった。甘酸っぱい柑橘系の香水の匂い、それからその奥にある、女の肌の、汗ばんだ、かすかに生臭い匂いに嗅覚が届いた。飯を食ったりテレビを見たりしている間、その獣の仔のような匂いの立つ女の身体が、確かに傍らに横たわっていた。
 毎夜午前二時、必ず物音に目を覚ました。録画予約をしていたビデオ・レコーダーが作動するのだ。その律儀な機会が45分後に止まるまでの間が、女の気配のもっとも濃く感じられる時間だった。
 何故殺される破目になどなった、と尋ねてみたかった。声に出して訊いたことも一度だけあった。かえって静けさが色濃くなった。何て寂しいんだ、と身震いした。その癖、明け方にはもう、翌日の午前二時を待望していた。
 一週間後、部屋を出て鍵を川に捨てた時、ポケットには前日に作った合鍵を入れていた。この先、使う機会があるかどうかはどうでもよかった。今はダウンジャケットのポケットに入っている。定期入れを出すたびに、鍵は鈴のように鳴る。


#10

それでも僕らは廻したい

 レーンを回る寿司にわさびを載せたりする悪質な悪戯が可視化されてから、回転寿司屋は国民の怒りをバックに高額訴訟、通報時一皿無料システムを導入、ネット戦士達は凝縮した悪意の砲撃を行い、犯人の人生を破壊していったが、悪戯は止まなかった。賠償金目的の寿司テロ闇バイトによる因果逆転現象もそうだが、原因は人間社会のバグのように思えた。だから回転寿司屋は防御力を高めるしかなく、地下鉄のホームドアを参考にした完全防護レーン、人が手を出せない超高速の磁気浮上式高速レーンなどが賠償金を原資として開発された。
 そして、この地方の回転寿司チェーンにおいても、昔ながらの回転寿司レーンの廃止が決定された。

 僕は店長に詰め寄った。
「廻さない回転寿司なんて、ただの寿司です」
「ただの寿司でよくない?」
 高額な大手のシステムではなく、外注して独自のシステムを作るらしい。ベースは地下鉄ホームドア型だろう。
「お客さんは廻ってる所が見えませんよね? それじゃあ意味がない」
 店長は困り切った、というように頭をかく。
「昔、何故寿司を廻すのかと聞いたとき、店長は言いましたよね。それは寿司が廻りたがってるからだって。俺はその背中を押してやるんだって。その言葉があるから、僕はここで働こうと思ったのに……今更何なんですか!」
「いや、言ってないからね」
 僕はトーンを変える。
「僕の思い出にはいつもメリーゴーランドがあります。キラキラして、ペガサスやライオンがいて、乗り物酔いの酷い僕は乗れないけど、見ているだけで幸せになる。僕にとって回転寿司はメリーゴーランドなんです」
「そう、だったんだね……ってならないなあ」
「大人はいつもそうだ!」
「いや、君も大人だからね」

 屋上でタバコをふかしていると、後ろから店長が来て並んだ。
 結局、僕の抗議は退けられたが、外注した会社が飛んでシステム導入計画は流れたらしい。
「残念ですか?」
「別に。どうせ僕も雇われだしね」
 疲れた中年の横顔だ。
「何で、そんなにこだわったの?」
 僕は昇っていく煙を見ながら答えた。
「廻る寿司は、輪廻から解脱するんです。寿司は廻って善行を積み、さらにわさびや唾を吐かれた寿司は悪行のカルマを清算して、食べられてニルヴァーナに至る。素晴らしいシステムです」
「それは……凄いね」
 そう凄い。人間はいつか宇宙の仕組みさえも解き明かし、ハックするだろう。
 僕はそれを間近で見ていたい。


#11

家庭教師とソラと雪

 窓の外の雪に、飼い猫と昔家で観た映画のエンドロールが重なった。遙か上空から群を成して延々と降りてくる白い名前たち。実際の方向などは定かでなく、確かな記憶は膝の温もりだけだった。雪まみれになって歩いてくる家庭教師を見つけた心愛はいそいそと玄関まで迎えに行く。

 家庭教師の名前が死んだ猫と同じ「ソラ」だということを、心愛は先週知った。彼のスマートフォンを盗み見た瞬間に、思い出は光線となって現在と過去とを激しく往来した。

 ハンガーを借りダウンの上着を部屋に干すと、家庭教師はいつも通り雑談から始める。彼の癖毛に残った雪が融けて光る。よく茂った頭髪に、心愛は胸の中で「冬毛」と呟いた。
 親と彼が名を心愛から隠したように、心愛も自らの発見を秘匿した。日常を守るためには秘密でなければならないと彼女は解釈していた。
 もっとも勉強に集中などできず、家庭教師の怪訝な顔から目を背けて時間ばかりが過ぎてゆく。

「ごめんねぇ、今日はコーヒー切らしちゃって」と母が差し入れたのはホットミルクだった。
「わぁ、いつもありがとうございます。牛乳好きっすよ」
 喉を鳴らして浮き出る顎の輪郭と静脈に心愛は目を奪われた。確かにソラはミルクが好きだった。

 気づけば指導が終了していた。再び上着を着、じゃあまた、と言ってドアの向こうに消える家庭教師の背中を、息を詰まらせたままの心愛は見送った。まもなく雪掻き用の長靴を履き、自らも外に出た。先を行く彼はすぐに気づき立ち止まった。
「どうした?」
「そこまで送ってあげる」

 一列で歩く二人に会話はなかった。ふかふかした背中を見ながら、心愛は名前を呼びたいと強く思った。
 何度息を吸っても、名前は出てこなかった。気持ちばかりが溢れて、他に手立てがなく、心愛は後ろから彼に抱きついていた。表面の冷たさの向こうに温もりがあった。しかし決して芯に触れることはできない温もりだった。
 恐る恐る心愛が離れると、家庭教師は振り返り、雪を優しく払うように心愛の頭を三度撫でた。

 家庭教師を見送った後、心愛は火照りが取れるまであてもなく歩いた。人のない道の上に厚く積もった新雪は軽かった。蹴り上げるように足を運ぶ。そのたび、きめ細かい雪は飛沫のように波立った。雪の中を歩き続けながら、ミルクみたいだ、と心愛は思った。

 夜中に熱が出て、治るまで三日かかった。家庭教師との契約が解消されたことを、心愛は翌週知った。


編集: 短編