第245期 #11

家庭教師とソラと雪

 窓の外の雪に、飼い猫と昔家で観た映画のエンドロールが重なった。遙か上空から群を成して延々と降りてくる白い名前たち。実際の方向などは定かでなく、確かな記憶は膝の温もりだけだった。雪まみれになって歩いてくる家庭教師を見つけた心愛はいそいそと玄関まで迎えに行く。

 家庭教師の名前が死んだ猫と同じ「ソラ」だということを、心愛は先週知った。彼のスマートフォンを盗み見た瞬間に、思い出は光線となって現在と過去とを激しく往来した。

 ハンガーを借りダウンの上着を部屋に干すと、家庭教師はいつも通り雑談から始める。彼の癖毛に残った雪が融けて光る。よく茂った頭髪に、心愛は胸の中で「冬毛」と呟いた。
 親と彼が名を心愛から隠したように、心愛も自らの発見を秘匿した。日常を守るためには秘密でなければならないと彼女は解釈していた。
 もっとも勉強に集中などできず、家庭教師の怪訝な顔から目を背けて時間ばかりが過ぎてゆく。

「ごめんねぇ、今日はコーヒー切らしちゃって」と母が差し入れたのはホットミルクだった。
「わぁ、いつもありがとうございます。牛乳好きっすよ」
 喉を鳴らして浮き出る顎の輪郭と静脈に心愛は目を奪われた。確かにソラはミルクが好きだった。

 気づけば指導が終了していた。再び上着を着、じゃあまた、と言ってドアの向こうに消える家庭教師の背中を、息を詰まらせたままの心愛は見送った。まもなく雪掻き用の長靴を履き、自らも外に出た。先を行く彼はすぐに気づき立ち止まった。
「どうした?」
「そこまで送ってあげる」

 一列で歩く二人に会話はなかった。ふかふかした背中を見ながら、心愛は名前を呼びたいと強く思った。
 何度息を吸っても、名前は出てこなかった。気持ちばかりが溢れて、他に手立てがなく、心愛は後ろから彼に抱きついていた。表面の冷たさの向こうに温もりがあった。しかし決して芯に触れることはできない温もりだった。
 恐る恐る心愛が離れると、家庭教師は振り返り、雪を優しく払うように心愛の頭を三度撫でた。

 家庭教師を見送った後、心愛は火照りが取れるまであてもなく歩いた。人のない道の上に厚く積もった新雪は軽かった。蹴り上げるように足を運ぶ。そのたび、きめ細かい雪は飛沫のように波立った。雪の中を歩き続けながら、ミルクみたいだ、と心愛は思った。

 夜中に熱が出て、治るまで三日かかった。家庭教師との契約が解消されたことを、心愛は翌週知った。



Copyright © 2023 霧野楢人 / 編集: 短編