第244期 #3
午後十一時。凍てつく湯気を裂いて走り出す。たちまち顔が強張った。全天の夜空が身体を押し潰そうとする。淡々と脚を動かす。血が巡り、痺れに似た痛みが一過性の波となって体を通過する。不純物のない夜気が肺を洗っていく。
道は高台を行く。遠くに木々が黒々と鎮座し、まるで静止している。梢に猛禽の影が二つ。緩い谷を越える橋の途中、段丘の下方に広がった街あかりが見える。地方都市は夜に沈んでいる。
夜闇を駆けるとき、彼には父も母も兄弟もいない。彼の虚構の孤独を夜は無視した。金属音めいた反響だけが彼の耳の奥に届いた。
すぐに緩い切り通しが景観を遮り、法面に侵入した背の高い枯草が袖を掠める。電波塔を過ぎると人家が現れる。最初の交差点を曲がって下り坂が始まり、あの街あかりへと降りていく。
地面から脚に伝わる律動的な衝撃。滑らかな氷が断続的に蔓延っている。油断した一瞬、アイスバーンの反発を捉え損ねて派手に転倒した。が、受け身を取った彼はそのまま走り続ける。左手の痺れが軽い出血を示唆している。
きっかけはあったが、既に意味をなしていなかった。理由は失われている。見慣れた校舎がそびえ立つ広い敷地の正門で一度足を止める。睨んでも、唾を吐いてもコンクリート壁は反応しない。こうして毎日高校には「通っている」。それを知る者はいない。
街の中を抜け、今度は湖のほとりに敷かれた長い坂道を一気に駆け上がる。凍結した湖面は雪を被って仄白い。湖底に沈んだ死体は浮いてこないらしい。
登り切る頃には心臓が止まりそうになる。膝に手をついて荒い息を整える。確かなものが欲しかった。自分自身の不確かさで今にも心身がちぎれそうだった。明確な苦痛は厳冬の夜と等しく彼を安堵させた。勝手に流れる涙を拭う拍子に触れた前髪は凍っていた。
街路樹を数えながら脚を動かす。閑散とした住宅地を街灯が疎らに照らす。ナナカマドの赤い実の房が、枝先でいくつも萎びている。
昔好きだった和菓子屋の前を通る。シャッターは閉まっていた。いつ食べたかも覚えていない素甘の味が口の中に滲んだ。本当は血の味だった。この頃はいつも、彼は無意識に歯を強く食いしばっている。
巨大な冷気が沈澱していた。雲はなく、放射冷却が加速する。家が近づき、徐々に走る速度を落としていく。彼は単なる子供だった。父も母も兄弟もいた。ただ、どうしようもなく不安だった。確かなものが欲しかった。