第243期 #7

部屋

 目が覚めると私だった。世界は煙る霧雨のごとく描画されていく。完全な趣味として黒檀をハンドドリップし、木漏れ日を焼く。溶けたトラと熊を滴らせながらかぶりつく、ふりをする。私は物語を食う。
 本棚から本を抜き、開いて目を通す。吹雪く少女の手を握り続ける少年。モニタには芽吹く娘を摘出し続ける医師が映っていた。今日も異常なし。
 デスクに置かれた一冊のノートを手に取る。そこにはひとりで四季を監視する男の生活が描かれている――こんなふうに。
「目が覚めると私だった。視界は打ち寄せる波のごとく描画されていく。健全な嗜好として太陽を握り、池の泥をかき混ぜる。夜の薄衣をはぎ取りながらかぶりつく、ふりをする。私は空想を啜る。」
 彼と私の状況は似ていたが異なる点がひとつあった。首から下げた一本の鍵。扉の鍵らしい。鍵を認識して初めて扉の存在に、そこが室内であることに気づく。外という概念が生じ、閉じこめられていたことを理解する。
 であればすぐに出て行けばいいものを、ケーキの苺を残すようにそうしないでいる。いざというとき、何もかもに嫌気がさしたときに使うつもりなのかもしれない。

 数百年後、彼は鍵を使う。無機質な音と共に扉が開き、そこには彼や私に似た男が椅子に腰掛けている。ようやく来たかと男は言う。彼は男を殴り倒し、犯し、殺し、解体し、唾を吐き捨てる。私はノートを閉じる。今日も異常なし。
 ノートをしまうためデスクの抽斗を開けるとそこに鍵がある。なんだ、私も持っていたのか。しかしここに抽斗などあっただろうか。鍵を手に取り、数百年に匹敵する数秒間だけケーキの苺を残す気分を味わう。立ち上がる。
 扉を開く。鍵はかかっていなかった。
 弟が祖父に蝉の抜け殻を渡す。日を浴びて妹が紅葉する。祖母が灯油の虹色を舐める。姉が花開き、母が無数の胎児たちと海を泳ぐ。父が浜辺で煙草をふかし、兄は外国語の本を読む。男は隣人と梅雨入りし、女は船を沈没させる。彼は残暑を見舞い、彼女は彼岸を過ぎた。俺は彼らを殴り倒し、犯し、殺し、解体し、唾を吐き捨てる。お前は何者にもなり得ない。
 さあ鍵を開けよう。鍵穴はここにある。僕は私に鍵を差しこみ、ぐるりと半回転させる。肉が裂け血は迸り、はらわたがはみ出しからだはひっくり返る。表れたノブを回す。おはよう、おはよう、今はあなたの生まれる時間よ。どうか君にとって、この部屋が美しくありますように。



Copyright © 2022 Y.田中 崖 / 編集: 短編