第239期全作品一覧

# 題名 作者 文字数
1 タクシードライバー 蘇泉 648
2 がんばりましたね テックスロー 1000
3 宝くじで1億円当たったら 狐狸等間隔 103
4 立てば芍薬 朝飯抜太郎 1000
5 ハル・ナツ・アキ・フユ euReka 1000
6 声が聞きたい わがまま娘 995
7 暗闇で育っていく たなかなつみ 999
8 日々是山崎 伊吹ようめい 994
9 ミュージック Y.田中 崖 1000
10 朝が来る 霧野楢人 1000

#1

タクシードライバー

私は中国のある町に住んでいて、プライベートでよくタクシーを使う。
中国は基本スマホでタクシーを呼ぶ。
ある日、タクシーに乗って、万象ショッピングモールに行く。
車に乗ったら、何気なくタクシードライバーに「最近面白い事ある?」と聞いた。
そしてタクシードライバーは、話を始めた。

「まあ同僚のタクシードライバーの話ですが、その人、夜の方をやっていたんですね。まあ深夜タクシーということ。」
「で、ある日、霊園に行く客を乗せたんですね。アプリで。その客は女性で、何も言わずに車に乗ったんですね。」
「まあ深夜だし、1時くらいかな。あの霊園は周りに何もないんですよ。もう普通の客なわけじゃないですね。」
「そして霊園に着いたら、そのタクシードライバーは車の扉の音を聞こえなかったんですね。後ろを見たら、その客はもういなかったんですね。」
「まあ怖くて、車を出て、周りを見たら、誰もいないんですね。」
「その同僚は本当にビビって、その後はもう夜のタクシー運転をしないってことでした。」

私はそのエピソードを聞いて、「怖い話ですね」と返事した。

そしてタクシードライバーは続ける。
「そうですね。まあ昔は幽霊を乗せたら、料金を貰えなかったんですよ。でも今全部アプリなので、幽霊でも料金をちゃんと払ってくれるんですね。」


「あ、そう」と私が。

「そうなんですよ。有り難いですね、今の時代。だから我々幽霊ドライバーも、ちゃんと料金を貴方たちから取れるんですよ。はい、着きました。」

そのタクシードライバーは振り返って、その頭に、顔はなかった。


#2

がんばりましたね

「お疲れさまでーす」と五歳の娘手製のキーホルダーを付けたハンドバッグを手に、香澄は午後四時ちょうどにオフィスを後にする。「お疲れさまでしたー」とあいさつを返す優花のメガネの奥のその目はずっとパソコンのディスプレイに向けられたままだ。香澄がフロアを出るちょうどその瞬間に香澄のデスクの電話が鳴る。優花が取ると、香澄の業務についての問い合わせである。
「もしもし、営業二課の沢井ですが、河崎さんいますか?」
「河崎はあいにく本日は退社いたしました」
「そうですか。弱ったなあ」
 電話の相手は優花に先を促してもらいたそうな沈黙を醸す。優花は一瞬の間ののち、
「どうされましたか?」
「いや、実は明日納期になっていた見積の件、急に先方が今日中にどうしても欲しいと言っていて」
 その間にも優花は見積のフォルダを開き、沢井が欲しいと言っているファイルがほぼ完成しているのを見つけ、つとめて明るく伝える。
「私でよければ見積、作りましょうか。河崎さんもうほとんど完成してるみたいですし」
「ほんとうですか! よかった、ありがとうございます! 今日中だったら何時でも大丈夫です」
 沢井はそういうと優花の返事も待たずに電話を切った。香澄のファイルを開いて改めて見ると、タイトルと日付だけ新しく、中身は以前の見積そのままで、はっとした後に優花は自分の目算が甘かったことと、香澄が体裁を繕うことはうまいということを思い出し、後者については自分の悪いバイアスが働いているとすぐに打ち消し、香澄は悪くない、悪くないとつぶやきながら仕事に取り掛かり始めた。二十時コースだ。
 メールで見積を沢井に送って電話で確認を行う。
「ありがとうございます! すいません俺テンパってて誰に依頼してたか確認してなくて、でも島田さんだったんですね! 前にも助けてもらったことありますよね」
 優花ははい、はい、とうなずきながら「今度お礼しますよ、ワインのおいしいお店があって」と沢井の食事の誘いを勝手に妄想しながら、そうだったらうれしいのかな、と「じゃあすみません、失礼します」と沢井が電話を切った後も数秒間、受話器を耳に押し当てていた。
 部屋に帰り、鏡の前で化粧を落とす。今日はなんでこんなに自分が、気分が不定形になるのかしら、と裸眼でぼんやり映る自分を見る。ハリのある肌は蛍光灯を反射して白い。
 優花は
「がんばりましたね」
 と自分に告げ、洗面台の電気を消した。


#3

宝くじで1億円当たったら

宝くじで1億円当たったら何がしたいって?
仕事をやめるなんかしないよ
むしろ仕事を続けたい
1億当たったことで仕事の相乗効果になる
看板にもなるね
もっと頑張れるし、キャリアアップもする

あ、私の仕事は何?

宝くじ屋です


#4

立てば芍薬

 花の図鑑を見るのが好きだった。
 特に祖母に買ってもらったポケット図鑑は、どこでも持って行った。
 だから、僕が見る花は、大体がその図鑑に出てくる花だ。

 「芍薬」
 「えっ」
 珍しくて、つい声に出してしまった。
 目の前の芍薬の生徒が、おそらくきょとんとした顔で僕を見ている。
 夕暮れの図書室。貸出カウンター。放課後の終了時間間際。人はまばら。
「貸出ですね」
 僕は平静を装い、彼女から本を受け取り、告げられた学年と組、名前からバーコードを探して、貸出処理をする。彼女は本を受け取り、図書室を出ていく。その顔は既に芍薬ではない。
「そして、歩く姿は百合の花」
 僕は、ポケットから取り出した手帳に、英数字を使った符丁で彼女の学年と名前を書き、その横に
  立つ→芍薬
  歩く→百合
 と書いた。
「悪い! 遅れた!」
「遅い。片付け任せた」
 部活に顔を出していた相方と入れ替わり、僕は図書室を出た。

 僕は時折、人の顔が花に見える。
 共感覚の一種、と僕を診た先生は言った。花に見えるタイミングは様々だが、人とその動作に対応して、顔が花に変わる。うちの母親はテレビを見ているときにヒマワリ、父親はタバコを吸うときにアロエの花になる。ギョッとする映像だが、もう慣れた。
 不便だが(表情が読めないまま、会話するのは大変だ)、割り切れば楽でもある。
 病院通いもやめてしまったが、先生に言われて始めた、見える花の記録だけはずっと続けていた。学校に僕の個性を知る人はおらず、誰に見せるつもりはない。

 廊下の窓から見えるグラウンド。ボールを追って走る奴らはアジサイかバジル。教室に残って談笑するアサガオ、クロッカス。向こうからくる梅の花の先生。ガーベラ、コスモス、カスミソウ……学校に咲く花々。
 そうだな、芍薬は珍しかった。

「シャクヤク!」
 よく通る声に思わず振り向いた。そこには芍薬の花が立っていて。やがて百合に変わり、目の前でまた芍薬に。
「花の名前なんだね。そうでしょ」
 しばらくしてから、彼女が僕の言葉の意味を問うているのだと気づいて、うなずいた。
「やっぱり!」
 というか間あけすぎ!と言った彼女の顔は、もう百合ではなくて。
 ただ、花のような笑顔だと思った。
「じゃあね! ごめんね、呼び止めて」
 夕日が照らす廊下を去っていく彼女の背中を見ながら、手帳を取り出して書き留める。

  笑顔→すごくかわいい。

 我ながら陳腐だ、と少し笑う。


#5

ハル・ナツ・アキ・フユ

 ハルは猫の名前で、いま蝶と遊んでいます。
 この家にハルがいつやってきたのか、私は覚えていません。
 ずっと前からいたような、今初めて見たような……。
「それにハルって名前、誰がつけたんだっけ?」
 そう話す女性は、私の妹で、この家に一緒に住んでいるのですが、自分に妹がいた記憶が私にはありません。
「ハルって名前は自分でつけたよ」
 声のするほうを向くと、猫のハルが、頭に蝶をのせながら喋っています。
「ハルは春に生まれたからハル。猫はみんな自分で名前をつけるよ」
「へえ、ハルはお喋りができたのね」と妹。「何となくそんな気はしてたけど……」
 そこで会話が途切れると、ハルの頭にのっていた蝶がどこかへ飛んでいきました。
「そういえば妹のあたしは、お昼に食べる素麺ができたから、兄のあなたを呼びにきたんだったわ」
 素麺を食べるということは、いまは夏なのかもしれません。
「あたしは秋に生まれたからアキで、冬に生まれた兄のあなたはフユで、今日はナツが家に帰って来るから夏の素麺にしたの」

 お昼の素麺を食べようとテーブルについたら、いきなりドーンと破壊音がして目の前が真っ暗になりました。
 目を開けて辺りを見ると、家の半分が壊れていて、妹が血を流しながら倒れていました。
「アキ姉さん、ごめんなさい。上手く着地できなくて」
 そう声のするほうを向くと、巨大なトカゲのような生物が私たちを見下ろしていました。
「ハルも、フユ兄さんも元気そうね」
 妹はウーンと唸りながら起き上がり、壊れた冷蔵庫の中から素麺と麺つゆを取り出して、巨大な生物の前に置きました。
「これから兄さんと素麺を食べるところだったから、丁度よかったわ」
 会話から察するに、この巨大生物がナツで、私とアキの妹のようです。
「ナツは、季節の夏じゃなくて、ドーナツのナツなのに、アキ姉さんはいつも素麺を用意してくれる」
「ドーナツも素麺も、同じ小麦粉で出来ているからいいじゃない。あなたのアキ姉さんは、ナツが帰ってきてくれたことが一番うれしいの」
 猫のハルは、いつのまにか巨大生物のナツの頭までよじ登って、何事もなかったように毛づくろいをしています。
「そういえばナツは、体を小さくできるんだった」
 そう巨大生物のナツが言うと、体がするすると縮んで、小さな女の子になりました。
「ここに来るまでいろんな敵と戦わなきゃならなかったから、自分が女の子だってこと、すっかり忘れてたわ」


#6

声が聞きたい

友達から結婚式の招待状が届いた。
一緒に入っていたメモに、ちゃんと一緒に来るように、と書いてあって、そういうのはあっちに言ってもらいたい。
テーブルの上にハガキを置いて、ベッドに横たわる。
あっちの方が先に結婚するんだな。
結婚することを考えていたこともある。その時は彼女と一緒にいたいって気持ちが強かったんだけど、結局彼女に結婚しようとは言えなかった。
自由に好きに生きている彼女が、自分とはどこか違う次元を生きているような気がして、自分の次元に縛り付けてはいけないと思った。別に結婚だけが全てじゃないしね、と半ば諦めに似た気持ちだった。
結果、今も彼女は自由だし、キラキラ輝いている。そんな彼女が好きだ。付き合っているはずだけど、なんか一方的に片思いしている気分だけど。
そもそも、彼女の頭の中に結婚という選択肢があるのか疑問だ。

テーブルに置いてあったスマホが鳴った。
発信者は新郎だ。
「もしもし、久しぶり。しょ……」
「ちょっと聞くんだけどさ……」
こちらの言葉を遮って、新郎は用件を伝えてきた。招待状が宛先不明で返ってきたらしい。
どこにいるか知らないかって話なんだけど、彼女の実家に聞いてもわからないことを知っているわけがない。
直近で喋ったのはいつだっけ? ってぐらいご無沙汰だし、最後に会ったのは1年以上前だ。
大きな溜息の後に「お前ら本当に大丈夫なの?」と言われた。
「大丈夫って何が?」
「結婚する気あんのかって話」
「そんな次元の話じゃないよね。そもそも、付き合ってんのかな〜って思うときもあるし」
言葉にしたらむなしくなった。
「また電話がかかってきたら聞いておくから」
かけても時差のせいか出てくんないし、番号普通に変わっていることあるんだよね。
多分、失くしたり壊したりして、適当な国で適当に契約してきちゃうんだろうな。
ちゃんと解約手続きしないと通信料金だけで恐ろしい金額になっちゃうから、って言うんだけど、実際はどうなのかな?

電話を切って、暫くスマホを眺めていた。
珍しく彼女の声が聞きたいと思った。
今話題に上がったから、なんか寂しくなったのかも。
時計を見る。出てくれないってわかっている。もしかしたら、また番号が変わっているかもしれない。
それでもいいんだ。
彼女の番号にダイヤルする。
呼び出し音を無意識に数える。
もう切ろうかなぁ、と思ったところで「もしもし」って声がして、急に世界が明るくなった気がした。


#7

暗闇で育っていく

 ぷつ、と肘近くの外側に小さなできものができた。見えない場所にあるから気にならないけど、いったん見えてしまうと何度も確認してしまう。痛みがあるわけでなし、腕を動かすのに邪魔になる大きさでもない。放っておこうと決めるが、いったん気になってしまうともう駄目だ。なんとなく鬱陶しくて、針先で突く。すると、ぷつ、と天辺から血が丸く立ちあがり、流れることなくそこに居座った。
 小さな二色の鏡餅は、ますます意識を占領する。痛みもなく、腕の動きに支障があるでもない。病院に行くほどではない。でも鬱陶しくて、カッターの刃を当てる。すると、ぷつ、と横から白い粘液が丸く滲み出て、流れることなくそこに居着いた。
 学習した。放っておけばいい。何もしなければいい。排除しようとしなければ、これ以上大きくなることもない。痛みもなく、腕を動かすのに困ったりもしない。見なければ気にならない。なのについ腕を返してしまう。小さな三色の団子は見かけよりもずっと大きく頭のなかを占領する。放っておけばいい。痛みもないし、腕だって問題なく動かせる。なのに気になって仕方がない。鬱陶しさが止まらなくて、鋏の刃で挟む。すると、じょわり、と両側から黒い粘液が丸く溢れ出て、流れることなくそこに根をはった。
 どんどん大きくなってしまう。見ない見ないと何度も頭のなかで繰り返すのに何度も何度も確かめてしまう。痛くないし腕だって動かせるし気にかけない気にかけないと何度も思うのに何度も何度も何度も見ちゃうし鬱陶しいしこんなものさえなければよかったこんなものがいるから全部全部うまくいかない。台所に立ちナイフを研ぎ全力で刃先を突き立て何度も何度も突き立て何度も何度も何度も何度も出てくるな出てくるな一生そこに閉じこもってろ見ない見ない見えない見えない。
 きゃー、と高い悲鳴が聞こえてきて、気づくと腕から大きな顔が生えている。突き立てた刃の分だけその顔は皺だらけで流れる赤い涙がその顔を伝い滴り落ち高い声で叫び続けている。
 こんな子知らない傷つけたのわたしじゃない知らない知らない顔をしわくちゃにして涙をこぼして知らない知らないこんな子知らない見たこともないし誰なのかもわかんない。
 閉ざされた部屋で粘つく涙を流して悲鳴をあげながら部屋の外からはずっとしゃりしゃりしゃりしゃりナイフを研ぎ続ける耳障りな音が聞こえてきてもうずっとずっとずっと
 いつまで!


#8

日々是山崎

「はい、転居手続きはこれで終わ あっ」
 窓口のお姉さんは渡しかけた住民票を見直したあと、バツの悪そうな顔をしながら赤と黄色で構成されたペラ紙を取り出す。丸っこいフォントで「DY補助金」と書いてあった。もう帰れると思っていた僕は面倒な気持ちになる。
「江田さんは、補助金の対象になります」
 パンフレットに目を走らせる。区外から転居してきた人で、住居に最も近いCがDYだった者が対象で、最大二年間、月二千円もらえるらしい。
 バカにできない金額であるが、「住居に最も近いCがDY」の意味が全くわからない。

「このCとDYというのは?」
 指さしながら聞くと、お姉さんの身が固くなるのがわかった。なんとなくひそめた声で、
「Cは、コンビニエンスストアです」
「はあ、……あの、DYは?」
「いやその、ちょっと言えなくて、こう、察していただいて……」
 おずおずと差し出された区内の地図を見ると、爪の先ほどの蛍光ピンクが三つほど点在していた。ここが対象エリアらしい。
 DYの意味はすぐに分かった。分かったが、マジか?

「え、デイリーヤマザキですか?」
 こくこくと頷かれる。公務員という立場上、民間企業の名前を出せないのか。じゃあなんなんだこの制度は。
「デイリーヤマザキって、あの?」
「あの、です」やはりひそめた声。
「家から一番近いコンビニがデイリーヤマザキだとお金が出るってことですか?」
「そういうことになります」
 理解が追いつかない。

「えーと、なんでですか?」
「えー……っとですね、かわいそうだから、策定されたと聞いています」
 かわいそう。国からかわいそうとみなされるとは。
 とはいえ、もらえるものはもらいたい。これ以上気にするのはやめにした。東京はそういう場所なのだきっと。
 そう思えたのは、せっかく都内に越してきたのに一番近いコンビニがデイリーヤマザキだったらかわいそう、という感覚が、分からないでもなかったからだ。

 渡された認定証は、色画用紙にテプラを貼ってラミネートした簡素なものだった。隅もどう見ても直角ではない上に微妙に大きく、財布のポケットに入らなかった。
 二千円のために役所に行くのも面倒で恥ずかしい。口座振込なんてものはなかった。結局、一度も補助金をもらわないまま、二年が経った。

 なんだか捨てられない認定証が、まだ靴箱の上に置いてある。
 僕の家から一番近いコンビニは、今もデイリーヤマザキだ。


#9

ミュージック

 放課後に寝落ちして、気づいたら誰もいなかった。窓の向こうには茜色。慌ててよだれを拭うも特に慌てる必要はなく。家帰るの面倒くさいなと思いながら教室を出る。人気のない廊下、どの部屋も明かりはついてない。まだ下校時刻じゃないはずだけど。いつも聞こえる運動部の掛け声もなくて、私が寝てる間に世界終わった? とか馬鹿げた妄想。階段を下りる。
 三階の音楽室からハーモニカの音が聞こえ、少しほっとする。光を求める夜虫のように吸い寄せられていく。音が橙色をしている。
 音楽室に入るのは初めてだった。入口が二重で、扉はどちらも中途半端に開いている。奥の扉から、ぴょんと緑色の塊が飛び出す。蛙。蛙だ。音楽室って蛙がいるの? 蛙は私を見てから、くるりと向きをかえて奥に跳ねた。
 二つ目の扉を引くと同時にギターが鳴った。視界が開ける。空が見える。上の階があるはずなのに。夕焼けからのグラデーション、もこもこした雲が浮かんで、ぬるい風が生い茂る草木の匂いを運んできて、完全に外だ。どっかの山だ。バスの待合所みたいな小屋で、男子生徒がひとり座ってギターを弾いている。トタン屋根の下、顔が陰になっていて見えない。彼が口を開く。
 歌が始まる。キーの高い、ところどころ不安定さの滲む声。急に空が翳りぽつぽつと雨が降り始め、やがて土砂降り、足元の土がぬかるんで、水溜まりは嵩を増していく。私はびしょ濡れになりながら、彼の歌声から、演奏から、耳を、目をそらすことができない。降りこむ雨に頭から水を滴らせ、脚が半分水溜まりに沈んでも歌い続ける。
 サビ。
 私は蛙で、オタマジャクシで、同時にもっと小さなミジンコみたいな存在で、水溜りの泥のなかで泳いでいた。何を考えるでもなく、思うでもなく、ただ生きていた。私の触手が何かに当たる。固い。割れて、なかから白い芽が伸び始める。種だ。大きな丸い葉が私の上に次から次へと広がる。葉の隙間から、光の束が泥のなかに差しこむ。私は水面に顔を出す。温かい、光の雨を浴びるために。

 その日は興奮して逃げるように帰った。そのことを今も後悔している。音楽室前で出待ちみたいなこともしたけど、あの日歌っていた彼とは二度と会えなかった。友達からは夢だと笑われた。
 それから私はバイト代でギターとハーモニカを買って、あのとき聞いた曲を、もう十年も弾き続けている。今日は空が見えるかもしれない。もし見えたら教えてほしい。


#10

朝が来る

 枝葉の間から覗く空に青みが差し、暗闇に沈み澱んでいた空気中の粒子が微かに動く。呼応して、思い思いの位置を占める草葉が僅かに身じろぎをする。その一角、空よりは地表に近い楢の葉の裏で、羽化したばかりの蝶が羽ばたいた。まだ飛びはしない。これから乾きを知るであろう柔らかな翅は、水に浸した小指が作る波紋のような風を一筋だけ起こす。次いで口吻と脚が動き、身体と外界のありようを確かめると、再び息を潜める。

 楢の枝先に身を寄せる冬芽の隙間に産み付けられた扁平な卵は、楢に守られて厳冬を凌ぎ、楢の芽吹きと共に孵った。得体の知れない巨大な物質と力の循環の末端に芽吹いた葉を、生まれたばかりの青虫は必死に食べた。葉は鋸歯を展げるにつれ硬く不味くなり、青虫の仲間のいくらかは楢の防御に敗れ弱り死んでいった。毎日のように雀(カラ)の類が葉の茂る枝枝にやって来、多くの仲間は食べられていった。数回の脱皮の後に蛹になり、羽化に成功したのはほとんど奇跡で、なかにはいつ襲われたのか、中身をすっかり食い尽くし肥えた艶やかな寄生蜂が這い出てくる蛹もあった。
 今は盛夏の始まりにあった。

 楢の枝先に集まる葉が揺れる。蝶が再び羽を動かす。既に翅は外界に馴染んでいた。大きく開いた小さな翅は翡翠色。何度も羽ばたき、やがて確信を得たかのように舞い上がる。枝葉の暗い蔭から見上げる空は青い。蝶は楢の樹冠に向かって上昇する。枝葉の随所に張り巡らされた、いつか囚われるのであろう蜘蛛の巣をひとつずつかわし、はらはらと危うげに揺らめきながら、より朝に近いほうへ。

 不意に複眼が仲間を見出し、動揺した蝶は姿勢を乱す。百分の一程の生存率で羽化を果たした雄同士の邂逅だった。大きく羽ばたく小さな翅は翡翠色。この場合の仲間とは敵を意味した。縄張りを主張して、二匹は楢の枝葉の間を上へ下へと飛び回り、離れ、近づき、交錯する。

 遠い山並みから朝暘が昇る。水平に差した光が楢の葉を透かし、あるいは間隙を通過して蝶たちに届く。蝶の翅は陽射しを受けて光沢を帯びた色彩を放つ。仄かに赤い光の中で、青とも緑ともつかない煌めきがふたつ。はらはらと揺らぎながら踊るように、遠く近く、上へ下へ。

 その営みは一帯で繰り広げられる。やがて興奮が極まり昂った蝶たちは林冠から飛び出して舞う。白波が小さく跳ねるように、あるいは火の粉が散るように、山々の至る所で翡翠に似た光が閃いた。


編集: 短編