第236期 #5
「おーい、木村〜」
「はーい」
先輩に呼ばれるたびにドキドキして、その日一日が急に明るくなった。
高校生の時、運動部のマネージャーだった。ただ、マネージャーというものに憧れて、運動部のマネージャーになった。だから、ものすごくしんどかった。言われたことだけを淡々とこなしていた。ある時から部活に行くのが楽しくいなった。気付いたら先輩のことが好きになっていた。
お風呂の中や、眠るベッドの中で、先輩の声を何回も思い出しては胸が苦しくなって、頬が熱くなった。
大学生になって彼氏ができた。付き合い始めは楽しかった。でも、それも長くなかった。お互い若かったのか、自分の理想を相手に押し付けていたんだと思う
何かと衝突するようになって、気が付いたら、彼は私の友達と付き合っていた。
買い物をしている最中に、ふたりが手をつないで歩いているのを見かけて、なんだか気分が晴れた。
それまで何かにしがみついていたのかもしれない。一気に解放されたようだった。
そのあとも、何人か付き合った人はいたけれど、高校生の時のようなドキドキした気持ちになれる人はいなかった。
なんであの時、あんなにも先輩に夢中になれたのだろう?
恋に恋していたのかもしれない。
手に入れたいとかそういうことではなくて、そばにいて見ているだけで幸せだった。
「おーい、木村〜」
「は〜い」
席を立ちあがって、先輩のデスクに向かう。
就職した先に先輩がいるとは思ってなかった。それも、一昨年先輩が私の部署に移動してきて初めて知った。先輩は私のことなんて覚えてないだろうけど。
「機嫌悪い?」
「そんなことないですけど?」なんで?
「そう。これ、明日までにまとめておいて」
出てきた紙の束を受け取り、一枚めくる。
「明日のいつまでですか?」
「できれば11時が良いです」
「わかりました」
デスクに戻って、紙の束をペラペラめくる。マーカーに付箋。イメージしているグラフまで書き込まれている。
「自分でまとめた方が速いんじゃないかと思うんですけど」と呟いたら、「木村さんと話す口実じゃないですかね?」と隣の子がニヤニヤしながら言ってきた。
「はぁ?」何を言ってんだか。
モニターに向かって仕事を始める。サーバーから必要なデータを呼び出し、資料をまとめていく。最後の方に変な付箋が出てきた。
チラッと先輩の方を見る。
あの時の淡い気持ちを思い出す。
付箋の意図はわからないけど、明日が急に楽しみになった。