第232期 #12

フグ村フグ太くん

ふーぐた
ふぐたっふーぐたー
ふーーぐた
ふぐた、ふーーぐたー
ふぐふぐふーぐ
ふーーぐったー
ふぐふぐふぅーぐたー
ふぐむらっふーぐたぁー

大富豪の息子はその当時、酔っぱらうと歌った。この歌はフグ村フグ太というタイトルで、彼は僕のことをフグ太とよんだ。だが僕の名前はフグ村でもフグ太でもない。

大富豪の息子はフランス帰りの帰国子女だった。どうして大富豪の帰国子女が縄文土器のようなアパートに住む僕と知り合ったかはまた別に話すとして、彼は必ず僕と会うときは僕のアパートに爺やの運転するロールズロイスでやってくるのだった。

爺やはアパートに入ってこなかったが、彼は女友達(必ず2人いてどちらも日本語が話せない外国人だった)を連れていて、2DKの僕の部屋いっぱいに彼らの良い匂いが広がるのだった。

僕はよくJAZZをかけた。なぜなら彼が喜んだからだ。大富豪はJAZZなんて聞かないのかもしれない。ビルエヴァンスをきいて「ロブスターを薄い大根でくるんだようなピアノ曲だね」といっていたのを思い出す。

僕はロブスターを食べたことがなかったから、海老を大根で巻いた図を想像してみたけれども薄い大根というのもよくわからなくて生春巻きみたいなものかなと思ったが、その例えはエヴァンスとズレている気がした。

ウーバーイーツなんて便利なシステムがなかった頃だけど、大富豪は昔からウーバーイーツ的な仕組みをもっていた。彼の爺やがシャンパンやチーズ、ポテトが添えられた鴨肉をもってきてくれるのだ。

「わたくしの住む世界はね、抑制こそが大事なんだ」と彼は言った。彼の女友達は日本語がわからないにもかかわらず、うっとりと彼をみつめていた。ときどき彼は女友達に英語で話していた。僕は英検5級だからよくわからない。

彼が言う「抑制」というのが僕には理解できなかった。彼は爺やの運転する高級車にのって、美しい女たちを連れ歩き、ロブスターを大根で巻いて食べている。そのどこに抑制があったのだろう?

彼はそうしてオレンジジュースで割ったシャンパンをたらふく飲んで、ふーぐたふぐたふーぐた、と唄を歌って日が暮れると帰っていった。そういう日々がしばらく続いたあと連絡がとれなくなって、もう十数年たつ。ときどき彼の優雅な世界を僕はニュースで知る程度だ。

僕はときどき、奥さんのことをフグ村フグ太くん!と呼ぶことがある。なによフグ太って!と妻は言っていたが、今はもう慣れている。



Copyright © 2022 宇加谷 研一郎 / 編集: 短編