第231期全作品一覧

# 題名 作者 文字数
1 ひばりのや 瓶八 999
2 クリスマスプレゼント いぶき 817
3 PINK MOON テックスロー 996
4 ちょっとプロット 千載納言 821
5 正しい! 宇加谷 研一郎 1000
6 サンタクロースへの手紙 朝飯抜太郎 1000
7 双子のダンス euReka 1000
8 図書室の幽霊 Y.田中 崖 1000
9 母の声 たなかなつみ 999

#1

ひばりのや

「龍天に昇りて流木置き場かな」という俳句ができて気に入ったことがあったのだが、俳句としては写実性に欠いているのは自分でもわかっていた。これは、三月の大潮の時期に東京湾の葛西臨海公園というところを散歩していて得た句だった。広い砂浜があって、そこに打ち寄せられた流木が円環状に集められて積み上げられている場所があった。その高さはちょうど目の高さほどもあった。円環の直径は十メートルほどで、キャンプファイヤというには大きすぎ、さながら龍の巣のような威容があった。中を覗くと瓦礫などがまとめて置かれていた。三月というのは風が強い時期で、凧が面白い時期であるらしかった。砂浜は途中から草地になっていて、そこに凧同好会のテントがいくつも張ってあった。彼らは日がな一日そこで凧をあげているらしかった。草地の真ん中にポツンと仰向けに寝ている人がいた。何をしているのかと思ったが、彼の手から糸が伸びていた。糸は天につながっていて、爪の先ほどに小さくなった凧が空で風を受けていた。その凧は虹色であり尻尾があった。また別の凧は、空中で静止させたり、回転させたりできる、操作性の高い最新式のものであって、感心して眺めていると、その凧の持ち主が凧をもたせてくれた。操作は難しかった。しかし凧が風を受ける感覚が糸を通して手に伝わってくる、その風の重さが好ましかった。凧の主は何をしに来たのと私に聞いた。私は句会の題材の「雲雀」を見たことがないので探しに来たと答えた。インターネットで探したところ、葛西臨海公園の海岸では雲雀が営巣すると書いてあったのだ。凧の主は「雲雀はいるが、まだ時期が早い」と言った。卵を見たことがあると言った。右手の親指と人差し指で輪を作って、「これくらいの大きさで、とても綺麗だよ」と言った。
「雲雀野やアルミの蓋の開けごたえ」。結局実物を見たことがないまま雲雀を詠うことになってしまった。三十人弱の句会で最高点の八点を取ったが、先生から物言いがついた。「"アルミの蓋"が曖昧な表現でなんの蓋かわからん」。確かにそうなのだが。ごはんを詰めたアルマイトの弁当箱の蓋でも、炊き出しの豚汁のアルミの大型鍋の蓋でも、ボトル型缶コーヒーの蓋でも、各々好きな蓋を想像してもらうってわけにはいかないのですか!?と思ったが、聞けなかった。本命の「寝る人の指より糸や凧虹色」は見向きもされず零点。「龍天に〜」は出せなかった。


#2

クリスマスプレゼント

私の家の隣には、「鈴木静香クラシックバレエ教室」という名のバレエ教室がある。道に面した側はガラス張りになっていて、仕事から帰ってくる時間帯には、柔軟に体を折り曲げる小学生か中学生あたりの少女たちの様子がよく見えた。


顔を赤くして震える少女の背中をグイグイと押し、頭を伸ばした足に近づける先生、恐らく鈴木静香先生を始めて見た時には、昔話に登場する鬼や化け物に対する感情と同じものを先生に抱いた。それ以来、厚いガラスを隔ていても聞こえる先生の力強い手拍子に、何故か私も追い立てられているような気がして、ヘッドフォンの音量を一気に上げて、逃げるよう通りすぎるようになった。

クリスマスが近づいた頃、その教室ではどうやらクリスマス発表会に向けた練習をしているようだった。普段は白や薄ピンクのレオタードを着ている生徒たちが赤と緑のレースを折り重ねた華やかなチュチュで身を包んでいる。
イベントとは無縁な暮らしをしているせいか、思わず視線が引き寄せられてしまった。数ヶ月前までは真新しいトゥシューズを履き、子鹿の様な目をしていた少女たちが、一本の糸で吊られたようにピンと背筋を伸ばし、滑らかに踊っている。虹をかけたような曲線を描くジャンプが美しい。聞こえないはずの音楽が頭に流れるようだ。

気づくと私はかじかんだ手をもっと冷たいガラスに重ねて、踊りに見入り、漏れた吐息が幾度となくガラスを白く曇らせていた。伸びたトゥシューズの先が黒く汚れているのを見るとなぜか瞳の膜がじわりと熱くなる。

先生がぱちんと手を叩き、脳内の音楽が止まった。代わりに聞こえる町の雑踏に我に返る。冬の形容し難い雰囲気に飲まれ、感傷的になってしまったようだ。努めて何事もなかったように踵を返すと急に教室のドアが開いた。
静香先生が新品のトゥシューズを片手にこちらを見つめてくる。考えるより先に足が動き何故かそれを受け取ってしまった。

静香先生がサンタ帽子を被っていたからだろうか。


#3

PINK MOON

「今あるラインアップの中でお客様の肌の色を考えますと一番映えるデザインとしてはやはり濃紺に白花をあしらったメッシュタイプのこちらでしょうか……透け感を大事にするなら……お客様のカップ数ですと……」

 店員さんから控えめに漂う落ち着いたシトラスの香水の匂いにうっとりしながらブラを試着した私は鏡に映る自分の乳房を見ていた。左、右、前かがみ、背筋伸ばして一通りの角度から見る。濃紺のドレスをまとったそれらはいつもより丸く凛としていて、程よく盛られたそれらには大人の気品があった。
「お似合いですよ」
 そうなのだ、さすがプロの店員さん、文句のつけようないほどよく似合う。私のパーソナルカラーはブルベだし、上背もあって紺やネイビーがしっくりくるのはほんといつも思う。思うし、このままの姿勢でシャツを羽織って帰ってしまいたくなるし、今までもそうやってぴったりと私に似合うブラを付けていたんだけど、心の中で何かのつぼみがぷっくりと膨らんだ。鏡を見続ける私のバーガンディーブラウンの唇からぽろりとこぼれ出たつぼみはこうつぶやいた。
「ピンクがいいなあ」
 思わず口をついて出たその言葉に振り向いた店員さんに「あ、何でもないです」と言おうとするのを制して
「ピンクはいいですね」
 と店員さんは笑顔を浮かべて試着室から消えて、そのあと桜のようなブラを掲げて戻ってきた。「私もピンク、好きですよ」なんというか、なんでもないのになんでなんだろう、二人して秘密みたいな気持ちになって、思わず顔を見合わせて笑ってしまった。

 彼氏の部屋でだらだらテレビを見ていると彼氏が私の手の甲をさする。いつものサイン。でも私は今日は少し違うのだよ。彼氏が私の胸に手をやるのを制して、今日は自分からニットをたくし上げながら、薄目で彼氏の顔を見る。先手必勝とばかりに「可愛いでしょ」と言おうとしたら「お、ブラ可愛いね」と出鼻くじかれて、「でも何よそのドヤ顔」なんかすっごく恥ずかしいし悔しい。顔熱い。胸に顔をうずめる彼に「可愛いでしょ」と念を押すように声を掛け、うなずく彼の髪の毛がくすぐったい。私は自分に言い聞かせるように「可愛いのだよ」とつぶやいた。ぶぐっと彼が笑う。なぜかいつかの店員さんが頭に浮かんだ。店員さんはピンクのブラをまとって笑っていた。私の中のピンクは丸く膨らんで、口から言葉となってぽろぽろあふれる。可愛い、可愛い。愛してる。


#4

ちょっとプロット

 主役、 いぬ。 モスキーフル公爵家 労働とは? 諮問されている。

いくらオレが長靴をはいた猫だからといって労働とは? ??? なんてコトは
答えられないよぅ、 ワン

 第三王子、いぬの行動を見て、閃く〜 連想する。
何を書くか?
 犬はネコのように部屋に入りたい。 ぬくぬく暮らしたい。 今は外の犬舎にいる。
 品性は人間だから、今の暮らしは不満。 身体がいぬだからそれほど不便は感じていない。
王子は、5人の兄弟。 当然、競争がある。
 王都には、幸せ札。 と、言う札が流行っている。 これを持っていると幸せなのだ。
 身につけていられるようにポケットを考案するのも面白そう。
 
 この麦畑もご主人様の持ち物です。 いぬはウソをついて第三王子を売り込む。

王子は昨日遊びに出た町のラブホの部屋を思い出した。 
この町も畑もすべて王家のものである。 しかしお金がなければ使えない部屋もある。 
 帰りに幸せ札を買った。 やはり将来は幸せになりたい。

 おしゃれな王子はベルトもせずにポケットを使った上着を羽織っている。
 街中の平民の管筒着(ローブ)とは隔世のおしゃれな服装。
 可愛い妹の第五王女が猫を抱えてついてきた。 
 ポケットの中の幸せ札をつかんで昼下がりの光にかざしてみる。 これはお金だ。
お金で買った幸せ札だ。 

「いいものをあげよう」 嬉しそうに第五王女が笑う。 幸せをもらったら嬉しい。

 あれ、これ、つくったら売れる。 誰だって幸せになりたいから絶対売れる。
第三王子、マリウスは妹の喜ぶ顔を見て思った。 幸せ札を作ろう。 王家の威信で、、、

 そういえば、なにやら泥水、、、(よくかき混ぜた粘土水に、)
はかりを漬けると『贋金が浮き上がる。』、、、とかいっていたな。

 贋金を作っている奴らを探し出して、もっと金貨を作れるのか? 幸せ札買う奴らは
贋金だって充分だ。 

 いぬはお部屋で飼って欲しい。猫をちらちらみるけど、吠えたりはしない。 怒られるからね。



#5

正しい!

正しいことを言ってはいけない。相手はそれが正しいゆえに認めるか、認めないかの二択に迫られるわけだけども、たとえばそうだな、「君の親はハゲてるわけだろ? 爺さんもハゲてる。だから君はハゲるよ」なんて若い子にいってみたまえよ。

僕はその例え話にドキッとしたことを昨日のことのように覚えている。なぜなら僕の父も祖父も見事にハゲあがっていたからだ。そして今、僕はすっかりハゲてしまった。

正しいことは逆説的であるけれどもその論理の正しさゆえに会話の場を荒らし、関係を悪化させることしかない。そうだな、ハゲることが確定している若い子にはこう言ったらいい。「親がハゲだから子がハゲる、そんなこともあるかもしれないし、ないかもしれない。良い薬もある」

僕はこのときの話をその場では分かったつもりでいて、その後何年も痛い思いをした。偽善者には君はギゼンシャじゃないか、と言ったり、コンビニの店員だった友達に「でも君はコンビニの店員だろ」と言った。そして彼らとは結果的にその正しい指摘が遠因ともなって付き合いがなくなってしまった。今も申し訳なくおもってる。

こんなことを思う。たとえば空が本当に青くて美しいなと思ったとする。それは限りなく正しかったとして、一緒にいる相手に「青空がきれいだね」と言った場合。結果的に人生を振り返って思うことは、美しいという一語でさえ、それが正しかった場合言う必要はない。

あれは僕の髪がまだパーマをかけるほどに長かった頃、「本当に美人だ、大好きだ」と美女に告白してそれっきりになったことがあった。そう、あれは正しい感情であり、相手は正しく綺麗だった。

僕にこの話をしゃべった人も、すぐに僕の前から消えていった、いや、僕が彼を避けるようになった。なぜなら彼もまた僕に正しいことを言ったからだ。それではどうしたらいいのか、というとき、実は僕はその答えをもっている。なぜこんなにハゲてデブで貧しい僕のような男のところにこんなに美しく若い女がいるのかという事実。それはこういうわけだ、僕は彼女にたったの1回でも正しいことを言ったことがない。嘘をついてるわけではなく、彼女に酷いことをしてるわけでもない。ただ、正しいことを言わないだけ。それでも関係は成り立つし、世の中に正しさということは言語化されるべきものなのかとさえ思ってしまう。

この手紙は破られるために書かれている。ここに書いたことは正しいことだから。


#6

サンタクロースへの手紙

「パパ!」
飛びついてきた息子の向こう側に、腰に手を当てて怒る妻がいる。
「見てよ!部屋中砂だらけなの」
「悪いのはレオさ」
息子に反省の色はない。
「また重くなったな。うん、26kgはある」
「そんなにないよ」
「さては、ここに」
たくさん入れたな、とお腹をくすぐると、息子は歓声を上げてソファに逃げた。
私は息子の隣に座った。テーブルの上で妻の淹れたコーヒーが湯気をたてる。
「さあ、エリアス。イブは明日だが」
エリアスは無言で、手に持った封筒を振った。
「ギリギリだな」
私が手を伸ばすと、エリアスはそれを遮って言った。
「レオが、サンタなんかいないって」
「……それでケンカを?」
エリアスは目を伏せた。長いまつ毛が憂いを帯びる。
だが、すぐに顔をあげて言った。
「だから、証明したいんだ」
「何を?」
「サンタはこの手紙を不思議な力で読むはずだよね。ここに手紙を読むためだけに来るわけはない。だから、本当にサンタがいるなら、この手紙は明後日の朝まで、このままのはずさ」
テーブルに置かれた封筒は、古めかしい封蝋により封印されていた。


「開いた」
深夜、私と妻はほっと息をついた。
封蝋の形はキレイなままだ。本物の蝋でなくて助かった。
しかし、私が手紙を取り出そうと、封筒を逆さにしたとき、ザラザァという音ともに封筒から砂が零れ落ちた。
遅れて、私は息子の罠にはまったことを知った。
封蝋は囮だ。
「確か去年のプレゼントは」
「電子天秤よ、あなたの開発した」
「精度は十分だな」
エリアスは予め手紙の重さを量っているだろう。
砂を元に戻そうにも、部屋はまだ息子がばらまいた砂まみれだ。
私達は、再び顔を見合わせ、どちらからともなく、肩を震わせて、笑った。


クリスマスの朝。
エリアスは、プレゼントのドローンを手に屈託なく笑っていた。
その横には、電子天秤の上に乗せた手紙がある。
私たちはその光景をにこやかに眺めていた。今年も守りきったという満足感と共に。
まさか、『サンタのギフト』としてはハズレだと思っていた、私の『絶対重感』が役立つとは。昨夜は思わず二人で笑ってしまった。
在庫切れの旧式のドローンも『組合』を通して数時間で手に入れることができた。
息子は、大人たちがこの日にかける努力をまだ知らない。でも、それでいい。
エリアスは8歳。サンタとの契約はあと2年。
それまで、守りきって見せる。能力などなくても、あの日、抱いた小さなかたまりの重さを、私達は忘れはしない。


#7

双子のダンス

 ゆかりとゆりかは双子ではないが、顔や、背格好や、服装の趣味などがそっくりだったので、双子になることにした。
 二人が一緒にいると、喋るタイミングや、笑うツボも全く同じで奇跡としかいいようがない、と教授は思った。
 教授は遺伝子の研究をしている学者だが、実は二人が働いているメイドカフェの店主でもある。
 だから研究者の本能で、DNAの一致率が血縁関係を示していないのであれば、二人がこれだけ似ている理由は何なのかを追求したくなる。
 しかし、もしDNAの一致率が一卵性の双子を示した場合、彼女たちは実は本当の双子だったという、極めてプライベートな問題に土足で踏み込むことになる。
 なので教授は、彼女たちのゲノム解析をしたいという欲望を殺し、ただのメイドカフェの店長として温かく見守ることに決めた。

「ねえ教授、わたしたちが双子になる儀式の立会人になってくれませんか?」
 教授は少し考える素振りをしたが、実は立会人に選んでもらえたことが嬉しくて言葉が出ないだけだった。
「ダメだったらいいんです、同じバイトの子に頼みますから」
 いや、ぜんぜんダメじゃないから、と教授は言って、彼女たちの手を強く握った。

 双子の儀式の当日、メイドカフェには、ゆかりとゆりか、そして教授の三人だけがいた。
 儀式では、二人が自分の気持ちを書いた作文を朗読したり、カラオケをデュエットしたりした。
「では最後に、二人で考えた双子のダンスをします」
 ゆらゆらとした動きの中で、ときおり手のひらを叩くという奇妙なダンスだったが、十回ほど手を叩いたところで突然店内が激しく光った。
「こんにちは、教授」
 まぶしさがおさまって、教授が目を開けてみると、ゆかりとゆりかの間にもう一人、彼女たちとそっくりの女性が立っていた。
「実は、われわれは宇宙人で、われわれの種族はみな同じ顔なのです」
 女性は、驚いた表情をした二人の手を取りながら言った。
「彼女たちは、地球人の別々の母体で産ませた実験体でしたが、無事に成長したので回収に参りました」
 その言葉に、ゆかりとゆりかは笑顔を失い、床にしゃがみ込んでしまった。
「彼女たちは事情を知らないので戸惑うのも無理はありませんが、双子のダンスは、実験終了の合図だったのです」
 教授は、懐からピストルを取り出すと、躊躇なく女性を撃った。

 言い忘れていたが、教授は、「ピストル使いの教授」の名で恐れられる殺し屋でもある。


#8

図書室の幽霊

 図書室の隅に幽霊の席があります。ある秋の黄昏時、そこにひとりの男子が座っていました。一定のリズムで本の頁を捲っています。グラウンドから野球部の掛け声が、体育館からブラスバンド部の練習する音が聞こえます。図書室にいるのは私と彼だけでした。私はカウンターの内側で、好きなミステリ作家の新刊を読んでいました。
 探偵が死体を発見した時でした。顔を上げると、幽霊の席の男子がカウンターで貸出カードを記入していました。彼は二枚のカードを差し出すと、私には目もくれず行ってしまいました。手にしている本は一冊しかありません。慌てて引き留めましたが、返事の代わりに図書室のドアが閉まる音がしただけでした。
 困りました。書名も確認できていません。一枚目のカードのタイトルは『鍵のかかった部屋』。二年C組、柳君というのが彼の名前。返却予定日にスタンプを押します。二枚目を見て、私は凍りつきました。
 そこには、ただ「幽霊」とだけ書かれていたのです。作者名もありません。
 寒気がしました。日が沈み、窓の外が夜に染まり始め、運動部の声もブラスバンドの合奏も止んでいました。蛍光灯の薄情な光が室内を照らしています。柳君の借りた幽霊が冷気を残していったのだと、震えながら思いました。
 私は首を振りました。考えすぎよ。本は二冊重ねていたから見えなかっただけ。一冊目と同じ作家の『幽霊たち』って本があった。タイトルを書き間違えたのよ。しかし『幽霊たち』は棚にあり、貸出カードも入っていました。
 私はカウンターに戻って、幽霊の貸出カードを手に取りました。そして、貸出箱の二年C組の列に二枚のカードを差しました。

 幽霊を貸し出してから一週間、私は落ち着かない気分で過ごしました。一週間後の下校時刻間際、『鍵のかかった部屋』がカウンターに置かれていました。
 柳君が返却に来ないことはわかっていました。二年C組に柳という名字の生徒はいないのです。ほかに幽霊を借りた生徒も、一人として在籍していませんでした。
 私は返却日のスタンプを押し、唾を飲みこんで、幽霊のカードに自分の名前を書きました。貸出日は今日。返却予定日は一週間後。
 呼ばれて振り返ると、幽霊の席に女の子が座っていました。周りを四人の男女が取り囲み、そのなかには柳君もいます。本を一冊借りて、と女の子は言いました。君はどこに連れて行ってくれるの。笑顔の向こうに棚が透けて見えました。


#9

母の声

 母はいつも笑顔で愛らしかった。母の語る世界は美しく、軽やかに周囲の人たちを称え、誰からも慕われた。幼い頃も成長後も辛いときも、母に寄り添えば虹色の世界だった。わたしたちきょうだいは世界を自身を信じ、母を愛した。
 母はわたしたちの成人後、両親を、夫の両親を、夫を見送った。家業の工場を売り抜け、庭いっぱいの花を毎年見事に咲かせる。
 孫たちの独立直後、母は倒れた。
 病院のベッドに横たわる母は、厚い膜で覆われた塊だった。愛らしい姿は醜い膜の下に隠れ、苦しい息づかいが漏れる。
 膜が母の生命力を奪っている。取り除けば病は癒えるが、患者の遺伝子を継ぐ者の手でなければ無理であり、大きな傷と痛みをともなう、と担当医は言った。
 躊躇はない。わたしたちはベッドの周囲に立ち、母の膜に手をかけた。爪が剥がれ指が傷だらけになる。息を切らし痛みを堪え、母の病層を剥がす。
 現れた母は痩せ細っていたが、穏やかな呼吸で、肌に血の気が戻った。
 もう大丈夫だと担当医に告げられ、歓声をあげた。抱き合い、涙を流し、母の生還を祝う。
 そして、母の声が聞こえてきた。
 聞き知った声ではない。憎しみと怒りに染まる呪わしい声。
 声が過去を暴く。幼い母を鞭打ち労働を強いる両親。跡継ぎである兄と自分との格差。横暴な舅姑と、怠惰な夫。夫の元にやって来る女たち。朝から晩まで座る暇もなく働かされ、言うことを聞かない子たちに振り回され、面倒事の責任を負わされる。辛さを訴えた両親に追われ、戻った婚家では満足な食事も寝具もない。台所の包丁を研ぎ、毒をもった花を庭中に植える。
 憎しみは幾層もの膜になり、わたしたちの肩に積み重なった。
 呼応するように、身の内に憎しみがわきおこる。
 幼い頃から母の声で遮断された怒りが。すべてを耐えろ許せと言い含められ押し潰してきた憎しみが。
 わたしたちは床に這いつくばり嘔吐した。
 母は絶対で逆らうことはできなかった。母の意に染まぬものを排除し母にすべてを委ねれば、容易に幸福が得られた。
 お母さまはこのままお元気になりますよ、と担当医が言う。
 わたしたちは視線を交わし、自らを覆う病層に手をかけ、母のベッドへ投げた。剥いだ傷口から血が溢れ強い痛みが苛むが、躊躇なく続けた。
 長い時間が過ぎ、傷だらけのわたしたちの眼前には声のない醜い塊。
 わたしたちは母の病を嘆き、母への愛情を言い交わし、葬儀の準備に向かった。


編集: 短編