第23期 #18

海から

 窓から手を伸ばして枝を折り取った。セミが鳴き止み、陽射しは容赦なく葉を焦がす。帽子を被らなければ、すぐにも顔が赤く灼けそうな日だった。階段を飛び降り、戸を開く。

 先行するクロスバイクの細いタイヤは融けることもなく黙々と回り、僕はチェーンが軋みをたてる中古で買ったばかりの実用自転車を走らせた。路面から受ける輻射熱に視界が眩み、時々強く目を瞑り直した。時間が流れることをぼんやりと捉えつつ、通り過ぎた道、部屋で聴いた歌、そんなものが思考を巡り続ける。
 街路樹の根元から猫が飛び出し、アスファルトの熱にとびはねた。翔が初めてこちらを振り返り、口元を綻ばせ、前に向き直った。まもなく猫は反対側の畑へ飛び込み、その一部始終は、蜃気楼の水たまりから逃げ出すようでもあった。

 緩やかな坂を登りきった時、唐突として海が現れた。腕時計をみれば1時間も走っていない。乾ききった砂浜に乗り入れていくと膝まで砂に沈み、翔が荷台からゴムボートを降ろし、僕はふたつの自転車に砂をかけ、フレームに括っておいた枝を目印として突き刺す。鍵は持ってきていない。
 気が遠くなるくらい、遠くまで続く波打ち際を歩く。その海岸を横切るふたつの川を目指した。相も変わらずに翔は一言も喋ろうとしない。どうにかして喋らせようと石を投げてみたくなり、けれど足元には水がしみて固い地面があるだけだった。漂着した昆布や、貝殻のたぐいさえ見つからない。

 紺碧の海とは対照的に、無色の透きとおった水が流れていた。あるいは、と思って川の水を掬い、すこし口に入れる。汽水域であるためか味は薄い。水面はむやみやたらに光を反射させるばかりで魚影も見当たらない。そもそも釣竿なんて無いけれど、退屈を紛らわす何かを必要に思った。
 川原を見渡してみても消波ブロックの他には何もなく、持っていけそうな物は帽子だけだった。
 ボートに空気を送り込み、それが一人乗りであることに気付く。翔が何を考えて持ってきたのか解らない。戻ろうか、そう声を掛けると、黙りこんだまま翔はボートに乗り、岸を蹴った。歩くより緩やかに流れる。どうしてよいのかわからない僕は目を瞑り、部屋で繰り返し聴いた歌を思い出していた。翔が、ようやく返事をした。

「戻ってくるよ」

 川は海へ流れ込み、海からどこか、低いところに川は流れていく。



Copyright © 2004 川野直己 / 編集: 短編