第23期 #17

薄暗いバーにスカイブルー

 初老の男はカウンターに坐り、黒いネクタイを緩め、スコッチの入ったグラスに右手を添えた。そして左手には、若々しく栄えるスカイブルーのマフラーを握り締めている。
 バーでは薄暗い照明が照らす琥珀色の液体が、壁一面に整然と並ぶボトルの中で微かに揺らめきながら眠り続けていた。

 数年前、子育てという大きな責任から解放された男とその妻は、自分達へのささやかなご褒美にと共にパリへ旅行にでかけた。
 いつでも妻は買い物をしたがり、男はそれを待つ役目であった。男はブティックの入り口で妻の長い品定めが終わるのを待っていた。待ちくたびれた彼は通りの向こうに葉巻店を見つけ、教育の行き届いたブティックの店員に一言告げてから、そこへ足を運んだ。
 その葉巻店には見たこともない類の多様な葉巻がガラスの棚に収められていた。カフェで一休みする時に楽しもうと思い、お気に入りになるであろう葉巻の一本を選び始めた。
 つい葉巻選びに夢中になり、ほんの十数分、男は妻の事をすっかり忘れていた。そして不意に、品定めを終えた妻がブティックで待っているであろう事を思い出し、ハッとした男は手元にあった葉巻を買って妻のもとに急いだ。
 ブティックの入り口で案の定まっていた妻に軽く謝って、二人は寄り添いながら歩き出し、近くのカフェで一休みをした。
 小さな丸いテーブルと、背の低い椅子に腰をかけて、男が先程買った葉巻を胸のポケットから取り出して火を点けると、さわやかな甘い煙がパリの晴れた大空にゆっくりと舞い上がっていった。
 それを見届けてから、妻は四角く薄い箱をテーブルの上に出して、濃い緑色のリボンを解いて蓋を開けた。そこには、あの空のように深く青いマフラーがふんわりと佇んでいた。

 「もう、お互い歳を取ってしまったけれど。これ、あなたに似合うかしらね。」
 美しく老いた女は、嬉しげに男にそう言った。
 男はその青いマフラーを凝視した儘、目が離せなかった。
 妻は夫をブティックの入り口で待たせていた時、夫の事を考えていた。しかし男は妻を同じ場所に待たせていた時、彼自身の事しか想ってはいなかったのである。
 男はその時初めて知った。男が妻を愛するよりも更に、妻が男を愛していた事を。

 薄暗いバー。独りきりになった初老の男が握り締めるマフラーを冷たい涙が濡らす。
 それでも尚、スカイブルーのマフラーはその涙にすらも、今はまだ残酷な温もりを与えていた。



Copyright © 2004 神差計一郎 / 編集: 短編