第229期 #4

おはようみそ汁

空気清浄機とエアコンの無機質な作動音も寝静まった街のアパートの一室の中ではやけに大きく響く。寝室で眠る水本さんは、彼の特徴である地響きのような低い声からは想像のつかない小鳥のさえずりのような可愛らしい寝息を規則的にたてていた。家電までいびきをかいた薄暗い部屋で、俺は水本さんが目覚めるのを日が昇るよりも心待ちにする。やがて水本さんが起きて雷のように低い声で「おはよう」というと、俺は口をまごつかせながら「おはよう」と返す。俺は十二時間くらい前から起きていたし、やっとこれから眠るのに「おはよう」というのはなんとなく違和感があったからだ。

俺はフリーランスのデザイナーだ。納期とクオリティさえ守れば、生活リズムはデザイナーの自由に支配できるのだが、俺もこんなつもりはなかった。明確に思い出せないけれど、あらかた制作に熱中するあまり夜を超えてしまったのを皮切りに噛み合わなくなったのだろう歯車。再び合ったと思ったら、今度は反対の方向に回り始めて昼夜逆転生活が定着してしまった。たとえ他人と生活が反転してるとはいえ、充分に寝て、充分に働いているのだから問題ないと思ったが、カップラーメンにレトルト食品という廃れた食生活だけは、水本さんも見過ごせなかったらしく、今では水本さんの作る毎朝のできたて朝食と作り置きのバラエティに富んだおかずを昼夜食べることが義務付けられた。義務といっても当然有難い話だが、寝る前に和朝食を食べると少し惜しい。目覚めにすするみそ汁がどれだけ素晴らしいことか。

浅い眠りの淵に選挙カーが通りかかり目を覚ますと休日の真昼だった。油がぱちぱち跳ねる音とキャベツの葉がはがされる音が混じり、打楽器隊の演奏のようで、聞いていると意識も鮮明になっていく。台所を覗くとやはり水本さんが料理をしていた。手際のよい水本さんは同時に複数のおかずを完成させていく。メトロームが壊れてしまった生活をする俺の健康を下支えしてくれるおかず。野菜を切る時に大げさに揺れる水本さんの肩を陽光が温めていて、俺はそれを飽きもせずいつまでも見つめていた。

翌朝、例の低い声と共に目覚めた。熟睡のせいでまぶたは半分も開かないが、わずかに覗く隙間へ容赦なく朝日が射しこむ。湯気がのぼるみそ汁は舌をじりじりに痺れさせ食道を通ると、胃に落ちて、体中に優しい温度を広げた。思わず感嘆をこぼすと、ほぐれてきた喉で「おはよう」と言った。



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