第229期 #10

森へ

 ガラス製のドアを開けると、ほんのり温かい空気に包まれた。加湿器が蒸気を噴いている。アロマオイルだろうか、不思議な香りが漂っている。観葉植物が二、三ある程度なのに、森のようだと思う。
「いらっしゃいませ」
「こんにちは」
 椅子に腰かける。今日はどうします? と訊かれ、前回と同じ感じでと答える。
「それじゃ、切りますね」
 鋏が入れられる。さく、という微かな音と感触に嬉しくなる。店内を満たすBGMはあまり聞かないジャンルの洋楽で、渋い男性ボーカルが耳に心地よい。さくさくさくと、鋏が細かくリズムを刻む。

 引っ越しに伴い、十年以上お世話になっていた美容室を替えた。それから三、四軒ほどふらふらしたが、初めての場所は緊張するし、人が多いと疲れる。そろそろ落ち着きたいなと思っていたところで、この店を見つけた。
 予約して、実際に切ってもらって驚いた。髪が鋏に引っかからない。頭に負担が全くない。そして何より音が違った。ちょきちょきでも、じょきじょきでもない。さくさく、という軽い音。

 人気のない静かな森で、白いポンチョみたいなあれを羽織って、木の葉のクッションにうずもれて座る。鳥に似た目のない生き物が、飛び回りながら私の髪をさくさくと啄む。数ヶ月かけて伸びた髪が、はらりと落ちて、化繊の上を滑っていく。さく、はらり、さく、はらり。やがて別の生き物がやってきて、ざっ、ざっと髪を齧りだす。古い私が切り離され、みるみる新しくなっていく。私にとって散髪は、入浴や排泄と同様に個人的な儀式らしい。そんなことに気づく。
「これくらいでどうですか」
 木陰からにゅっと首を出して店主が訊ねる。日焼けした肌から鹿を連想するも、どちらかというとチーターとか、猫科の顔をしている。初めはさっぱりした短髪だったのに、次は肩まで伸ばしてパーマをかけていて驚いた。今日は後ろで一つに結んでいる。毎回髪型が違っていて面白い。
 席を移動する。仰向けになり、髪を洗ってもらう。これは小川の水、でも温かいから温泉だろうか、などと無理やり空想の続きをやる。少し眠くなる。
 ドライヤーをかけられているあいだ、私は犬になっている。
「コーヒーお好きなんですか」
 カウンターの上のドリッパーを見て訊ねると、店主は目を丸くしてから笑った。飲みます?
 淹れてもらったコーヒーは、土みたいに苦くておいしかった。
 新しい私は森を後にする。首を撫でる風が少し冷たい。



Copyright © 2021 Y.田中 崖 / 編集: 短編