第228期 #3

海の底にて

 家のすぐ外まで、海が広がってきた。
 扉を開けて一歩外に出ると、とぷんと、丈高い水の層のなかに埋もれてしまう。塩辛い味が口のなかに広がるし、幾分呼吸がしづらくなるけど、大丈夫。わたしたちは海のなかを自力で移動することができる。
 歩いている人たちもいるけど、泳いでいる人たちもいる。泳ぐほうが断然速く移動できるから、子どもや若い人たちの大半は泳いでいるけど、外を歩くということを忘れたくない人たちは、抵抗力の強い水のなかを、ゆっくりゆっくり歩いて移動する。
 わたしも歩くほうが好き。ニンゲンであったことを忘れずにいられる。厚い水の層のなかで、他のニンゲンたちやサカナたちやカイソウが流れていくのを横目に見ながら、ゆっくりゆっくり、足を上げ下ろしし、掌で水をかくように腕を動かしながら移動し、同じようにゆっくりゆっくり動いている人たちと挨拶をする。おはようございます。今日はいつもよりお早いですね。ええ、仕事が忙しくて。そうですか、あなたも。
 だっていつまで経っても、浸海の後始末が終わらないから。
 仕事先に着くと、わたしたちはいつもどおり、自分のカードにスタンプを押してもらい、本日の持ち場へと移動する。深い水の層の底に蹲り、積み上がった瓦礫を整理する。まだ使えるものと、もう使えないものとに分けて、使えないものは細かく砕いて、速い流れのなかへ放り投げる。流れはほんの少しも淀むことなく、不要になったものを巻き込んで去っていく。なくなったものはもう要らないもの。思い出す必要のないもの。水のなかの暮らしに適さないもの。
 わたしたちは残されたものをリュックのなかに詰め込んで持ち帰る。それは流れないもの。わたしたちをそこへ留め置いてくれるもの。水の外で暮らしていたときには要らなかったもの。むしろ邪魔だったもの。今ではこういうものが、わたしたちには必要だ。水のなかで浮き上がってしまわないもの。不意に流れていってしまわないもの。もうなくすことがないもの。
 わたしたちは持ち帰ったリュックのなかのものを、家のなかに敷き詰める。それはわたしたちのテーブルになり、椅子になり、オブジェになり、宝石になる。
 海はもう窓のすぐ外にまで広がってきている。この家ももうすぐ海に呑み込まれてしまう。
 わたしたちは海の底で暮らしている。そして、たぶんもうすぐ、海の生き物になる。



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