# | 題名 | 作者 | 文字数 |
---|---|---|---|
1 | 妹にクッキーを、 | いぶき | 960 |
2 | 最高の死に場所を探しに | 糸井翼 | 1000 |
3 | 桜の頃に | 千春 | 964 |
4 | うろ | テックスロー | 997 |
5 | 夜の商いびと | たなかなつみ | 992 |
6 | ゴーヤ姫 | euReka | 1000 |
7 | くしゃみ代行株式会社 | Y.田中 崖 | 1000 |
8 | 豚飼いの野望 | 瓶八 | 1000 |
9 | 線香代わりに | 志菩龍彦 | 999 |
まず、朝の5時から私を襲ったいくつかの感情に順序をつけて1つずつ解決していく必要があった。怒りと疑い、そしてまた、焦りと悲しみは両立できるはずがないのだから。
冷蔵庫からの冷気は2月の朝の部屋にじんわりと滲んで、そこには境界がなくなっていた。私が立つこちらが冷蔵庫の中で、私はじっと冷やされる食品の1つなのか。混乱で立ち尽くした私を冷蔵庫の「開けっ放し警音」が現実へ戻した。
バレンタインデイにクッキーと共に小寺くんに告白をする。齢14にして人生最大の決心であった。クッキー作りはもう告白と言ってよかった。
ボウルと化した小寺くんの心は「好き」を伝えるように砂糖を振りかけ、卵を落とす。0グラムだったそれは、徐々に重さを増し、私の中に積もった「好き」が可視化されたみたいだった。明日の朝には手紙も入れてラッピングするんだ。そう意気込んで冷蔵庫へそっと置いたハートのクッキーは、翌朝、1つ残らずなくなっていた。
「私は食べてない」
妹は珍しく、時間割とランドセルの中身を見比べながら持ち物確認をし、一切私と目を合わせようとしなかった。一冊ずつ教科書を取り出し、またそれを入れ直す。煮え切らない態度に思わず拳を握った。妹に駆け寄った拍子にランドセルを倒してしまった。階段のように雪崩れた教科書の間から小さく折り畳まれたラッピング袋が顔を出す。
妹は一目散に顔を上げやっと目を合わせたかと思うと、
「食べてない!」と叫びながら家を飛び出した。ランドセルを置いたまま。
凍えた街がピンクと甘さで満たされる季節になると毎年、いつかのクッキーと妹のことを思い出す。小寺くんの顔なんて忘れてしまったのに置いてかれたランドセルの悲しい顔が未だに目に浮かぶのだから不思議だ。結局妹は、「お姉ちゃんを小寺くんに取られるのが嫌だった」とその日のうちに白状しておきながら、結局その後私より先に結婚していったのだから憎いヤツだ。だけどやはり愛おしいのだ。
頭の隅でぼやっと感慨に耽る仕事終わり午後七時。帰宅を急ぐため、いつになくのんびりとした人の森をくぐり抜ける。後方から、街頭に並ぶお菓子屋だろうか、「大切な人へお菓子の贈り物はいかがですか」というような売り出し文句が聞こえてきた。クッキーでも贈ってあげようか、と踵を返すとチョコの香りがふわりと鼻をくすぐった。
中学生の頃初めて「死にたい」と思って、そのときはそんなこと考える自分が悲しく怖かった。今は「死にたい」が当たり前になった。そんな日々も積もって、ついに溢れ出そうとしていた。
バルコニーから外を見ていると、突然目の前に長身の紳士が現れた。
「はじめまして。死神です。あなたの死にたいという声を聞いて来ました。」ああ、私はここで死ぬのか。ついに限界が来たんだ。ここから落ちればいいの?
「いえいえ、ここですると事故物件になって近所迷惑です。最高の死に場所を私と探しに参りましょう」
死神に手を引かれ、空を飛んだ。ビルの上では夜空がいつもよりずっと広く見えた。普段騒がしく苦しいだけの街でも、地上の光はここからなら静かで美しい。ここから落ちればいいの?
「いえいえ、ここからだと無関係の人の上に落ちて、危ないですから」
観光名所の岬。夜の海は不気味に揺れていた。一方、海は暗いから夜空は星が本当にきれいだ。このまま私も美しい星になれれば。
「いえいえ、よく考えると、溺死体は見た目も悪いし、処理が大変で警察に迷惑ですからやめておきましょう」
少し離れた森の中。段々朝が近いのか、空はやや明るくなってきた。朝の直前の森の匂いは土と水と緑で溢れて爽やかだ。足下には可愛い花が咲いている。こんな世界で自由に暮らせたなら、私はこんな気持ちにはなっていなかっただろう。
太い幹の大きな木。神聖なたたずまい。神様なんているなら私のような思いをする人は生まれない。そう思うのに、この木からは神々しいエネルギーを感じてしまう。死神が足を止めた。ここで首を吊るの?
「いえいえ、この木は地元の人たちが神様として大切にしている木です。汚す訳に は参りません」
気が付けば山の頂上に着いた。崖から見える東の空から太陽が昇り出した。この世界は美しい。涙が出てきた。いつも流す悲しい涙ではなくて、もっと心の奥から湧き出る、言葉にならない涙。
この崖から落ちれば、はるか下に叩きつけられて私は間違えなく終わる。だけど。死神は私の顔を見て微笑む。
「いえいえ、この美しい日の出スポットを愛する人たちはいっぱいいるんです。心霊スポットにする訳には参りません。」
「死神さん、最高の死に場所、なかなか見つかりませんね。次はどこに連れて行ってくれるんですか」
「そうですね。とっておきの候補がいくつかあります。もう少し探しましょうか」
私と死神の、美しい世界を巡る旅は続く。
4ヶ月か…。指を折って数えるまでもない。
これでも長く続いた方なんだからさぁ?
窓の外に向かって言い訳してみても、誰も納得させることができないだろうということは予測できていた。いつもの3倍だるい体を引きずってバイトに向かう。今日は新人が入ってくる予定。美咲はその教育係だ。
習慣で早めに着いてしまった控え室には見知らぬ男の子が制服に着替えていた。美咲はわっ!と驚く声を飲み込んでバイトモードに切り替えた。
「今日から来る新人の子?よろしくね」
男の子は、
「よろしくお願いします。」
と静かに頭を下げた。
少し背の低いその男の子の名前は「楠木 裕也」と言った。仕事を覚えるのも早かった裕也は気づけばゆうちゃんと呼ばれ、バイト仲間にすんなり仲間入りしていた。
数ヶ月経ったある日のこと、バイト仲間の一人がにやにやとつついた。
「ゆうちゃんは彼女いるの?」
「いないね。あんまりいろいろ付き合うタイプじゃないし。俺、一人だけでいいんだ。」
「どういうこと?」
「自分にとってベストな人を見つかればいいってこと。条件はたくさんあるよ。でもその条件を満たす人がいれば他には誰もいらないんだ。俺、付き合ったら長いよ。まぁ今の段階で別れちゃってるから、見る目があるのかって言ったら違うかもしれないけど。はは。」
「わはは!かっこいいじゃん!」
裕也を取り巻いたバイト仲間達は賑やかに歓談していた。
上手く笑えなくなってしまった美咲は用事を作ってその場から離れた。ゆうちゃんからしてみれば私はとっかえひっかえでだらしない女なのかもしれない。なんだかとてもみじめだ。
私だって本当は長く付き合いたい。でも上手く恋愛が進められないの。相手の気持ちも自分の気持ちもどう扱ったらいいのか全然わからない。
美咲は泣きたくなったが、あと少しのところで涙をこらえた。気持ちを落ち着かせようと深く深呼吸をすると、そこに裕也がやってきた。
「どうかした?俺なんかまずいこと言ったかな。」
勘づいて来てくれたのだ。
「ううん、そんなことないよ。」
涙目の顔を見せないように美咲は少し視線を逸らした。
「そっか、美咲さんのお陰で早くここにも溶け込めたよ。いつも気兼ねなく話しかけてくれてありがとう。」
そう言って裕也は仕事に戻っていった。
もう一度深呼吸をして裕也の背中を思い出すと、美咲は少し強くなれた気がした。
許されてる、許されている、そう心の中でつぶやきながら僕は瑛太を蹴り続ける。瑛太は止めて、止めてと言いながら、口の端に多分一生消えない引きつり笑いを残したままだ。
「お前のその笑い方が気持ち悪いんだよ、おらっ」
みぞおちの辺りを思い切り蹴ると、クリーンヒット、瑛太は教室の端まで跳んでいった。格闘ゲームでこんなシーンを見たことあって、僕はますます興奮して瑛太との間合いを詰める。
「いけっ、コンボだ」
同級生のギャラリーが操作レバーをまねする手振りで僕に呼びかける。僕は少しおどけてフィニッシュ前の「ため」の姿勢で少し止まる。3時間目のチャイムが鳴ったところで僕は拳を瑛太の顔面に振り下ろした。
「楽しかったね、瑛ちゃん」
僕はそう言うと、おまけみたいに瑛太の頭をはたいた。瑛太の引きつり笑いは震えていた。
放課後、保健室から出てくる瑛太を待ち伏せした。偶然を装って話しかけると、驚いた瑛太は頬傷の痛みに顔をゆがめるが、でもそれも一瞬で、細い目は笑って僕を捉えている。
「啓ちゃん」
「瑛ちゃん」
僕はいつも昼間は瑛太を蹴り飛ばし、殴りつけたあと、放課後は仲良く肩を並べて帰ることにしている。そこで僕は昼間僕が加えた暴力の内容をひとつずつおさらいする。
「みぞおちの蹴りは痛かった?」
「痛かった」
「じゃあ最後の顔を殴ったのは?」
「痛かった」
「許してくれる?」
「うん」
そうやって僕は毎日小遣いをせびるみたいに瑛太に許しを請うた。瑛太は昼間のことはまったく別の話だとでも言うように、一緒に映画を見ているような遠い目と口調で、僕が彼に加えた暴力について話した。そして彼の家の前に着いて瑛太にバイバイを言う前に、僕は決まってこう尋ねた。
「明日も瑛ちゃんのこと、殴っていい?」
瑛太は一瞬悲しそうな顔をして、でもうん、ともうーん、とも取れるような曖昧な返事をして、バイバイをして扉の向こうに消える。その前に、僕は「ちょっと待って」と彼を引き留めた。
「瑛ちゃんはなんでいつも僕のことを許してくれるの?」
瑛太は閉まりかけのドアを手で止めて、僕を見下ろした。僕はその目の奥に怒りを見つけようと穴が空くくらいに睨みつけた。その目の中に僕と同じ青暗い炎があるなら、僕はすぐにでも彼に泣いて土下座するのに、その目の奥はどこまでも深く、静かで、空虚だった。穴ならもう空いていた。目を離せと本能が叫ぶが、たぶんもう僕は動けない。
暑苦しい二つの太陽の光が地上から消えてしまうと、私たちは荷物を持って外に出る。私たちは夜に生きる種族の生き物で、夜から夜へと旅をしながら商いをする。
「夜のない世界もあるみたいよ」
顧客の店に酒を納品しに行くと、オーナーが内容物を点検しながらそう言う。
「こないだ、うちに来た客が言ってた。太陽が一つしかない星があるんだって。それで、その星が太陽に向かってずっと同じ面を向け続けているとしたら。こんなふうに」
オーナーは「こんなふうに」と言いながら、私たちに向かって掌を見せた。
「そしたらね、あたしの側は永遠に続く夜。それで、あなたたちは永遠に続く昼のなかで生きることになる」
私たちは触覚を触れ合わせて最後尾までその内容を伝達し合い、笑い合う。
「昼のなかで生きるって、無理でしょう。暑すぎてとても耐えられない。私たちはすぐに絶えてしまいます」
「あなたたち、太陽に弱いんだったね。光に当たると溶けちゃうんだっけ。いや、熱?」
「両方ですね。私たちは昼には溶けて水溜になります。暗いところで夜を待ちます」
「蒸発しちゃったりはしないの? あるいは、内部で生態系ができちゃったり」
「夜になって個体化したときの数をいちいちかぞえることはありませんが、増えたり減ったりはしているようです。そういうものであれば、あなたの内部にもあるのでは?」
「あ、わかっちゃった? もうすぐ生まれんのよ。お祝いしてくれる?」
「新生児向けのペーストであれば、こちらに」
私たちは連なったまま移動し、顧客のもとを訪ね、昼を徹して熟成させてきた数かずの飲食物を商いする。私たちが作る水溜は適度な発酵に都合がよい。私たちの商い品の評価は高い。
おかげで私たちは、まだ生き存えている。
商いを終え、太陽の光が射し込んでくる昼になると、外星からハンターがやってくる。この星に住まう希少種は、外星のコレクターの格好の餌食になる。だから、この星の生き物は、昼のあいだは擬態することを覚える。あるものは土に、あるものは草に。
そして、私たちは水に。
渇きを覚えたハンターたちは、時に水溜の水を汲み、口を付ける。私たちはそこから内部に入り込み、昼のあいだの新たな居を定める。暗闇で覆われた湿った世界をぞろぞろと這いながら、内部から少しずつ熟成させていく。
次の夜になると、私たちはまた新たな商い口を求め、旅を続ける。
ゴーヤを縦に切ったら、中から女の子が出てきた。
女の子の体は包丁で真っ二つに切れてしまい、私は悪いことをしたなと後悔した。
でも、ゴーヤ料理が出来上がる頃には女の子の体はくっついており、のんきにあくびをしている。
「おはよう、あたしはゴーヤ姫」と女の子は言った。「体を切られるときは結構痛かったけど、ゴーヤ姫というのは大抵、そうやって産まれてくるのよね」
私は何と言って謝ったらいいか分からなかったので、とりあえず、作ったばかりのゴーヤ料理を彼女に差し出した。
「もぐもぐ……、これは、ただゴーヤと卵を炒めて、塩コショウで味付けしただけの料理だけど、微かに残るゴーヤの青臭さに百点満点を差し上げます」
私は、真っ二つに切ってしまったゴーヤ姫と名乗る女の子が生きていただけで、嬉しかった。
なので、彼女の望むことを何でもしてあげたいという気持ちになっていた。
「あたし、アイドルになりたいの」
え?
「だから、あなたはマネージャーになって仕事を取ってきて」
私は、ネットでアイドルのなり方や仕事の取り方などを調べて、ライブの手配や動画配信などをやった。
「そんなあなたがおかげで、一年で超人気アイドルになってしまったから、次は自分の国を作ることにしたわ」
ええ?
「だから、あたしはゴーヤ姫国の国家元首であらせられるゴーヤ姫で、あなたはゴーヤ姫国の政治をやる首相になるの!」
私はアイドルのマネージャーから、ゴーヤ姫国の首相になり、ゴーヤ姫を守るために政治的に嫌なこと(敵対勢力への嫌がらせや要人暗殺など)を沢山やるはめになった。
「あなたは首相としてよく働いてくれたから、もう引退して、ゴーヤでも育てなさい」
首相になってから三十年後、ゴーヤ姫は、ゴーヤの種を一粒だけ渡すと私を首相から解任した。
その後、私はただの人間になり、首相の頃に貯めたお金で田舎に小さな家を買った。
ぼんやりと何も考えない日々を過ごしていたのだが、何年か過ぎたとき、姫からもらったゴーヤの種を思い出して庭に植えた。
ゴーヤは勝手に発芽して成長し、夏頃には大きな実を付けた。
私はゴーヤを収穫して、包丁で縦に切ってみたが、今度は中から誰かが出てくることは無かった。
「ほんとは、あたしに会いたかったのでしょ」
声のする方を振り返ると、ゴーヤ姫が食卓で頬杖をつきながらこちらを見ていた。
「あたしも姫をやめて、ただのゴーヤになることにしたから」
「くしゃみを買い取らせて下さい」
雑居ビルの一室。片隅に作られた申し訳程度の応接スペースのソファに、私は座っていた。慣れないスーツの膝に軽く触れる。
「どういう意味でしょうか? 私は事務職に応募したのですが」
くたびれたスーツに身を包んだ面接官が微笑む。
「そうでしたね。私、草目代行代表取締役の皺拭といいます」
社長だった。
「本題ですが、花昼さん、あなたのくしゃみを買い取らせて下さい。一回につき千円で」
くしゃみが多すぎる。一度始まると七、八回、長ければ二十回近く続く。
くしゃみが多くていいことはない。高校時代にバイトをクビになり、大学時代に恋人と別れ、社会人になってからも得意先との打合せ中にやらかして前線から外された。会社を所謂自主退職したあとパートを転々とし、今も無職でそろそろ貯金が尽きる。
皺拭社長によれば、くしゃみには厄を払う効果があるという。ただ、私を含むくしゃみが多い人たちはくしゃみを無駄にしているらしい。メディアに取り上げられる芸能人や政治家への不特定多数からの噂は、良し悪しに関わらず厄として作用する。無駄になっているくしゃみを必要な人に提供する、それが草目代行のビジネスとのこと。
胡散臭すぎるし、なぜ私のくしゃみが多いと知っているのか。脳内で警報が鳴った瞬間、ちょうどくしゃみが出た。八回。皺拭社長は言った。
「これで八千円。ステップアップすれば、一回一万で買い取りますよ」
私は契約を結んだ。
書面にサインすると、社長はどこかに電話して私の名前や年齢を告げた。そして「黙って聞いて下さい」とスマホを渡してきた。お経のような声が聞こえたが、やがて通話が切れた。
新しい生活が始まった。代行はリモートで行われるため普段通り生活していればよい。くしゃみは管理部にカウントされていて、回数に応じて賃金が振り込まれる。
くしゃみの単価は順調に上がり、私は安アパートからマンションに引っ越した。ほとんど外に出ず、家でくしゃみをして過ごした。
ある日社長から電話で「来週から一回一万になります」と言われた。振込額の桁が上がり、なぜかくしゃみの回数まで増えた。一度に十回は当たり前、五十を超えることもあった。はじめは収入が増えると喜んだけど、だんだん体力が続かなくなって、
きた。
一度、
始まると、
終わる、
まで、
何も、
できない、
一体、
いま、
私は、
誰の、
噂の、
肩代わり、
をして、
いる、
のだろう?
その捨て子に名前はなかったが、アルルベルク峠の麓にある城に運良く豚飼いの職を得た。
城に勤めてすぐに豚飼いはある事実に気づいた。
それは、峠で人が死にすぎるということだった。
靴売りの口上を信じれば、峠で死ぬ人間は年間二百人。
それにも関わらず、この城下の宿屋は十年前の十倍に増えた。
洗濯女の話では、城から近いハルという町で十年前に塩鉱が発見されたらしい。
行商人いわく、ハルの塩を峠の向こうで売ると良い商売になるようだった。
峠の向こうから来た子連れの寡婦が、ハルの塩は従来の塩の半値で買えると言っていた。
「粗悪な山道のせいで馬と積荷をダメにした」
「道標がないので迷って二晩も野宿した」
「雇った道案内に裏切られて身ぐるみ剥がされた」
峠での不幸話は半ば挨拶のように交わされた。
ある屈強な遍歴の騎士は、生きて峠を越えられたことに安堵して泣き出した。
「それでもここより低い峠はないからね」旅芸人はお手玉しながらステップを踏んだ。
年老いた傭兵は地面に図を描いた。
「問題はこの城と峠の向こうの村の間の距離が離れすぎていることだ」
「峠に宿を建てればいいのに」侍女見習いのヴェラは言った。
豚飼いは城主の財産を管理する仕事で、自分の財産を増やす手段はなかった。
祭りの日に砂糖のクレープを腹一杯食べるくらいの贅沢はできた。
しかし炭焼き職人の戒めでは、豚飼いが嫁を取るなど夢のまた夢。
節約をして誠実であれば豚飼いにも嫁の来手はある、と言う木こりの励ましは信憑性に欠けた。
大工見習いに聞いたところ、最も小さい家を建てるのにグルデン金貨十五枚。
試しに豚飼いが十五グルデンを貯めてみたところ二十年を要した。
十歳の少年は惨めな中年となり、近隣の娘から恐れられていた。
それというのも、彼女たちの親は「言うことを聞かないと豚飼いの嫁にしてしまうぞ」と脅して彼女たちを躾けたからだった。
「この十五グルデンを峠に宿を建てる資金の足しにして下さい」
城主は豚飼いの一世一代の申し出を一刀両断に断った。
家令が説明したような維持費の概念は、豚飼い風情は持ち合わせていなかった。
居酒屋に入ったのは初めての経験だった。
安酒を舐めて大暴れした豚飼いは、よせばいいのに誰彼かまわず募金を呼びかけ、めでたく冷笑と冬の井戸水を浴びた。
旅の巡礼僧は言った。
「城主がダメなら大公に頼めばいいじゃない」
こうして、大公が観劇中の舞台は飛び入りの豚の群れに占拠されたのだった。
何処の学校にも怪談の一つや二つはある。
私が赴任したこの高校にも怪談があった。所謂、七不思議という奴なのだが、既知のものとは若干内容が変わっていた。
二十年も経てば社会も変わる。それに合わせて怪談だって変わるのだろう。ヴェートーベンは額から抜け出してピアノを弾くのを止めたらしい。そもそも、肖像画自体が無くなってしまっていた。
懐中電灯を片手に、私は深夜の学校の見回りをしていた。警備会社に任せている学校も多いが、本校は教師の担当になっている。
こうやって学校の中を歩いていると、一種の錯覚に陥りそうになる。高校生だった頃に戻ったような気分になるのだ。
二十年前も、今と同じように深夜のこの学校を徘徊したことがあった。肝試しのような感覚で、忍び込んだのだ。その時は、一人ではなく二人だったが。
懐中電灯の丸い灯りの中に浮かび上がる教室は、あの頃から随分と変わってしまっていた。それでも、懐かしさを覚えるのは、この「学校」という場所の持つ独特の雰囲気、匂いのせいなのだろう。
胸ポケットから取り出した煙草を咥えて、火をつける。喫煙所以外での喫煙、しかも校舎の廊下だ。問題行為だが、バレる心配はない。
そう、二十年前の夜も、同じように煙草を吸っていた。あいつと一緒に。
見回りの最後に向かったのは、屋上だった。
屋上から見下ろす夜の街の煌めきは、あの頃と一緒である。
コンクリートの床に座り込むと、もう一本煙草を取り出し、無理矢理立たせて、火をつけた。
消えた「音楽室の怪」の代わりに七不思議に入ったのは、「屋上の幽霊」というものだった。
かつて、受験の失敗を苦にした生徒が屋上から飛び降り自殺をした。その霊が成仏出来ずに、いまだに学校を彷徨っているのだという。
「……何も死ぬこたァねえだろ」
誰に言うでもなく、口からポロリと言葉が漏れていた。今も昔もその思いは同じだ。相談すらされなかった。全部抱えて、一人で逝った。それが腹立たしく、哀しかった。
今日は、彼の命日だった。
暗闇の中で気怠く煙草を吸った後、腰を上げ、
「また来るよ」
そう言った瞬間だった。
煙草の火が一瞬だけカッと赤く、強くなり、そして音も無くフッと消えた。風は吹いておらず、証拠に煙草は立ったままピクリともしてない。
暫くの間、私は煙草を凝視していたが、やがてそれを携帯灰皿に入れて、屋上を後にした。
口元に微苦笑を浮かべながら。