# | 題名 | 作者 | 文字数 |
---|---|---|---|
1 | 二日目 | テックスロー | 1000 |
2 | 何より大事なことなので | たなかなつみ | 954 |
3 | 鬼 | Y.田中 崖 | 1000 |
4 | 夏の住人 | euReka | 1000 |
5 | 狩人 | 霧野楢人 | 937 |
「父ちゃんあれ、できる?」
息子が雲梯を指さして言った。
「できるさ」
俺は大げさに腕まくりをしてぶら下がると、身体を揺らしながら一段ずつ進んだ。四段目まできたところでハアハア息が切れて、もう限界だと思って息子を見下ろすと
「がんばれー」
だらしなく伸びた指がきゅっと縮んだ。雲梯はどこまでも続く線路のようだった。右手を離し、先へ。左手を離し、先へ。腰から下を大げさに揺すりながら、歯を食いしばり、ときに空振りしながら、一段一段、夢中で手を伸ばし続けると、ついに終点にたどり着いた。
「父ちゃんすごい」
肩で息をして、汗をかき、上ずった声で俺は言った。
「言ったろ、こんなの何でもないさ。諦めなけりゃ何だってできるんだ」
チョコのアイスを舐めながら歩いていると、息子が空いている方の手をつかんで笑った。
「父ちゃんの手、アイスみたいに冷たい」
雲梯で血の気と握力を失った俺の右手にすっぽり収まった息子の手を握りしめる。息子の熱が俺の手に伝わりきる前に、携帯が鳴る。
「あの……、そろそろ」
「分かってる、分かってるよ」
何度も振り返りながら息子は俺に手を振り、かつての妻と去っていった。また来月。雲梯の冷たさ、息子の手の温かさ、携帯電話の冷たさが混じった手を見る。
「その紫のメッシュのがいいんじゃない」
「いやーよ、そんなの。でも、前の奥さんはこんな大胆なの無理でしょ?」
「そうなんだよ、ねえ、そのパンツにしなよ、あとでいっぱいちゅぱちゅぱしてあげるから」
「馬鹿ねえ。もう一回言ったら考えようかなあ」
「ちゅぱちゅぱ」「ふふ」「ちゅぱちゅぱ」「もう一回」「ちゅ」
「父ちゃん?」
ショッピングモールの下着屋の店先で、俺は紫色の婦人下着を片手に唇を突き出したまま固まった。息子は続ける。
「今日も会えたね、父ちゃん、ねえ、遊ぼうよ、父ちゃん、あっちで限定品が売っているんだよ」
「そうだな、また来月な」
「やだいやだやだよ父ちゃん、だってそこのお姉ちゃんはパンツ買ってもらってずるいじゃないか。ねえ、買ってってば買ってよー、うわああん」
トイレから戻ったらしい元妻は状況をに気付き、しかし遠くから薄ら笑いでこちらを見る。息子はさらに声を張り上げて続ける。「ねえ父ちゃん、昨日諦めなければなんでもできるって言ったじゃんか、行こうよ買ってよ遊ぼうよわああん」
握りしめる右手の中でパンツがしゃらしゃらと擦れる。相当にいい素材らしい。
大事なことを忘れないように、メモに書きつけて貼りつけることにする。最初はほんの少し、数えるほどのメモだったから、毎朝起きたときに全部復唱して忘れないようにすることができた。でも、メモはどんどん増えていく一方で、捨ててもいいメモは一向に現れないから、毎朝毎朝どんどん復唱を続け、朝がどんどん長くなっていく。
ひとつひとつ文字にしようとするから面倒なことになるのだと思い、メモはやめて写真を撮って貼りつけることにする。これなら毎朝起きたときに見返すだけで復唱する手間が要らないから大丈夫だと考えた。でも、写真はやっぱりどんどん増え続けていく一方で、捨ててもいい写真なんかどれひとつとしてないから、毎朝毎朝見るだけのことさえ無理になっていって、朝がどんどん四方八方へと侵食し続けていく。
ひとつひとつ形にまとめようとするから厄介なことになるのだと思い、大事な今日をそのまま貼りつけることにした。そうして今日暮らしている自分(たち)が今日ごとあちらにもこちらにも貼りつけられるようになってどんどん増殖し続けていくことになり、さすがにこれはちょっと不便かもと貼りつけられた自分(たち)ごと考える。でも、大事なことが増殖し続けていくのは幸せなことだから、そのまま増え続けるに任せることにした。
すでに世界はずっと朝のまま、ここから抜け出すなんてことはもうできない。なんでもかんでも貼りつけて済まそうとした自分(たち)の所為だとも一瞬だけ考えたが、考えること自体が今日と一緒に増殖して折り重なるだけ折り重なってどんどん目詰まりを起こし続けることしかもうしない。そうしてあちらでもこちらでも大事な今日がどんどん詰まりに詰まっていって、処理しきれない朝が世界をどんどん覆うだけ覆っていってしまう。
ずっと朝のなかにいる自分(たち)は眠ることにも起きることにももう辿り着かない。大事な今日があちらからもこちらからも押し寄せ広がり続けぐるぐるぐるぐる折り重なりあらゆる空間に詰まり続けるなか、視界の端を邪魔するしっぽがずっと不快をもよおしている。でも、それに手を伸ばしたいと考える隙間さえもうまったくどこにも存在しない。
だから幸せにも世界はこの先ずっとつながり続けていく朝のなかに在り続け、もう絶対に破滅することはありません。
メスを握る。切る。溢れる血液を綿が吸う。看護士が私の汗を拭く。切り開く。刺す。固定する。腫瘍が覗く。それは唇のような形で、かすかに笑みを浮かべている。切除、摘出する。傷口を縫う。
白い部屋から患者の乗った担架が倍速再生で出ていき、私だけが取り残される。業者が清掃するなか、私は立ち尽くしている。次のオペの準備がなされ、次の患者の乗った担架が運びこまれる。そこで再生速度が戻る。手を消毒する。
ナイフを握る。切る。血液は手術衣を赤く染めてなお溢れ出す。看護士を見る。彼女は大きく口を開いて私に抱きつき、こめかみを伝う汗を舐める。何をする、抗議もできず私は切り開く。固定する。血にまみれた眼球と目が合い、摘出する。傷口を縫う。倍速で出ていく担架。入れ替わりに次の担架。手を消毒する。
包丁を握る。切る。溢れ出す血液を看護士が啜る。切り開く。内側から大量の赤い綿が出てくる。私は何を切った? 指は勝手に動き、綿に包まれた鼻をピンセットで摘出する。ほつれた布地をまとめて凧糸で縛る。これは娘にプレゼントしたぬいぐるみだ。担架が入れ替わる。
カッターナイフを握る。切る。血液は出ない。看護士ががちがち歯を鳴らす。汗が止まらない。横たわっているのは私だった。私は私を切り開く。なかは空洞だ。奥から耳をつまんで取り出す。傷口をガムテープでとめる。私は台の上でからだを起こし、平然と歩いて出ていく。
鋏を握る。切る。血飛沫が散る。看護士がのたうつ。私は嗚咽する。切り開く。床に生臭い水が滴り落ちる。水の上に浮かぶ小さな手を摘出する。握りしめる。これ以上大きくなれなかった娘の手。腹を開かれたままの看護士――私の妻が、虚ろな眼差しを向ける。
増え続ける肉塊に爪を立てる。裂く。どす黒い血が噴き出す。引きちぎる。蠢く肉のなかに小さな足を見つける。こんなところにいたのか。摘出する。怖かったな。家へ帰ろう。
ここは暗い河原で、私は血に濡れた石を積んでいる。ばらばらにされたからだを繋ぎ合わせ、娘が蘇る。広がる夏空の下、麦藁帽を被って笑う。駆け回り、振り返って私を見る。けれど、薄く開いた唇は動かない。口の端に血がこびりついている。
やがて倍速で業者がやってきて、散乱した肉塊を娘のからだもろとも洗い流す。私は立ち尽くしている。また失敗だ。いや、あれは娘ではなかった。娘はどこだ。次の担架が運びこまれ、手を消毒する。メス。
一年ぶりに冷蔵庫を開いたら、中に洞穴のような道ができていた。
中に入ると最初はヒンヤリしていたが、暗い洞穴をしばらく進んでいくとだんだん暑くなっていく。
このまま進むべきかどうかを考えながら歩いていたら、前方にまぶしい光が見えてきて、突然、洞窟を抜けた。
「夏の世界へようこそ!」
そう声がするほうを見ると、青いハッピを着た中年の男と若い女が、笑顔で立っていた。
周りの風景は、砂浜や、パラソルや、照りつける太陽なんかがあって確かに夏みたいだ。
「われわれは、夏に恋してるあなたを案内する役割を与えられた者です。なんなりと、ご要望や、ご命令をお与え下さい」
なんだか変な人たちだなと思ったので、軽く会釈をしてその場を離れたのだが、彼らは五メートルほど後ろをずっと付いてくる。
「あのう、私はただ冷蔵庫の中の、この変な世界に迷い込んだだけなのですが……」
私がそう言うと、青いハッピの二人は顔を見合わせて何かを話し合った。
「ああ、そういうことね」
青いハッピを着た若い女性が、急に態度を変えてそう言った。
「あなたは〈夏の住人〉ではないのね?」
「たぶん違うと思いますが」
「それじゃあ全然用はないから、さっさと消えて」
私は少し不愉快な気分のまま、洞窟の外に広がる夏の世界とやらをしばらく散歩した。
砂浜を歩いていたら、陸の方に古い民家が見えてきたので立ち寄ってみると、家の縁側から、背を丸くした老婆が姿を現した。
「よくおいでくださった」
老婆はそう言うと、麦茶を出してくれた。
私は礼を言って縁側に腰掛け、麦茶の入ったグラスを手に持った。
「ところで、青いハッピの人たちが言っていた〈夏の住人〉とは何なのですか?」
私がそう質問すると、老婆の顔が少しこわばった。
「そ、それはな、夏という季節に青春のすべてを捧げた尊いお方のことであるが、そうでない人でも、一億円払うとその権利を得ることができるというプランです」
私は麦茶に口を付ける寸前でやめ、グラスを床に置いた。
「でも〈過ぎし夏を懐かしむ人々〉というプランであれば、今ならたったの千円で登録可能ですよ」
目の前の老婆は、発言をするごとになぜか若返っていって、気づくと三十代ぐらいの女性になっていた。
「ところで、この麦茶は無料でいただけるのですか?」
「いいえ、そうじゃありませんが、〈夏に良い思い出がなくてむしろ憂鬱になる人々〉というプランなら完全に無料です」
俺を見ろ。一発で楽にするから。
俺はお前を畏怖している。だがお前は神ではないのを知っている。熱い呼吸が繊細なお前の命を生かしている。ただ生きようともがき、お前は走り続けている。お前の足跡を、俺は猛烈に追いかける。
お前のことを教えてくれ。その深い瞳で何を見て来たのかを。その小さな耳で何を聞いてきたのかを。何が前をそこまで大きく育てたのかを。毛深い逞しい四肢が何を捉え、何に傷つき、何を傷つけてきたのかを。俺は何も知らないお前のことを知りたい。
水溜りを駆け抜けた足跡が乱れている。その先に糞尿が撒き散らされている。お前は焦り、混乱しているのだ。糞の中身は青々とした蕗。お前の腹はまだ森の中だ。
ヘリからの情報が入る。お前はコンクリート三面張りの水路を渡り、南へ向かっている。先回りのルートはすぐに浮かんだ。お前を死に追い込む動線だ。俺はすぐにジムニーに乗りアクセルを踏む。躊躇はしない。
再び俺はお前を捉えた。波打ち躍動する背中。川の中を歩いてきたから、お前は気づかなかったのだろう。蕗を食み、鳥と遊んだ森の中から、もう随分と離れてしまった。お前は認めたくなかった。突然目の前に現れた獣をお前は拒絶し、薙ぎ払った。何の罪もない通りすがりの人間だろうが、お前は薙ぎ払ってしまったのだ。
お前は広い茂みの中に入る。もう周りに人気はない。ああ、今日はとてもいい天気だ。お前が逃げ込んだ茂みは生き生きと揺れる。お前の最期の場所だ。俺は車を降り、ライフルを携え、祈りながら茂みに近づく。
俺を見ろ。
目の前に閃く大きな黒い掌、爪。
お前の殺気で、俺はその光景を鮮明に描くことができる。俺は何度でも殺される。白昼夢。その度に怯みそうになる。お前の命が俺に重なりそうになる。生きていたいと思う俺に等しく、お前にも生きて欲しいと願いそうになる。
せめて最期まで精一杯生きることを、俺は祈る。目標が定まる。銃を構えた俺の前には、もうお前しかいない。
茂みの中から、二つの黒い瞳が煌めく。視線が俺とお前を結ぶ。凄まじい殺気、その先に俺は見つけ出す。怒り、不安、恐怖、驚き。そのさらに向こう。お前が生きてきた時間が爆縮する瞬間。衝撃、轟音。再び煌めいた瞳は、ゆっくりと茂みの中へ消えていった。