# | 題名 | 作者 | 文字数 |
---|---|---|---|
1 | 家を育てる | たなかなつみ | 998 |
2 | 演じているのは誰か | 三川ツミ | 894 |
3 | 僕のおこずかい | 安留史貢(やすどめ しこう) | 707 |
4 | ようそろ | テックスロー | 999 |
5 | 欠落者 | 志菩龍彦 | 1000 |
6 | 車窓と木漏れ日 | 月道幸良 | 1000 |
7 | ヤシの実スリッパ | kyoko | 944 |
8 | 夢の中の家族 | euReka | 1000 |
9 | プールサイド | Y.田中 崖 | 1000 |
10 | 青 | 霧野楢人 | 1000 |
家の建て方は育て親から教わった。
いいかい? と育て親は言った。
(家を建てるときはまず土台を頑丈に。部屋はなるべく軽く。大風が来たときに、いつでも飛んでいけるように。そしていつでも何度でも戻ってきて、また新たな家を拵えられるように)
そんなわけで、また新たに家を建てている。まずは残された土台をしっかりと点検して、さらに頑丈になるように組み上げる。そして、その上に部屋を載せていく。たくさんたくさん載せていく。
部屋のつくり方は人によって違う。わたしも育て親がつくっていたそのままを受け継いではいない。
けれども、育て親の教えは守っている。なるべく軽く。いつでも飛んでいけるように。
近くの森に採集に行く。古い森の奥まで入り込み、枝にたくさん生っている小さくて丸い白色の袋を収穫する。
持って帰ってきたそれに、細く丸めた木の葉のストローを指し、息を吹き込む。伸縮性のある袋は容易に膨らみ、膨らむにつれて色をなくしていき、どんどん透明に近づいていく。何度も休みながら息を入れていき、ほぼ一日で小さなテントほどの大きさになる。
片手で軽く投げ上げられるぐらいに軽いその部屋を、土台の上に積み上げていく。晴天が続く間にできるだけたくさんの部屋をつくり、積み上げて積み上げて家を育てていく。
今や半透明になった外部の膜のおかげで、部屋のなかはとても暖かい。それぞれの袋のなかには元の住人がおり、各部屋のなかでその子たちを育てながら日々を過ごす。
そうして、その子たちに教える。いいかい? まずは土台を頑丈に。いつでも飛んでいけるように。そしていつでも何度でも戻ってこられるように。
穏やかな日々は長くは続かない。昼夜絶えることなく大きな雨風に晒される日々がやってくると、部屋は抵抗することなく大風にのって飛んでいく。遠い遠いところまで部屋は旅を続ける。少しずつ少しずつ息を吐き出し、小さく小さくなりながら。
片手ほどの大きさにまで収縮した部屋は、森の奥まで飛んでいき、大樹の枝に次の居を定める。長い旅のあいだに干からびて小さく収縮したわたしは、その袋のなかで丸くなる。
子どもたちは育て親のつくっていたとおりの部屋はつくらない。けれども、ある日、誰かが見つける。この袋に息を吹き込むことで、新たな部屋が容易にできること。
その日まで、目を閉じて待つのです。おやすみ。元気で。わたしの育てた子どもたち。
大阪に住むFさんの話しだ。
Fさんは、当時付き合っていた彼女と遊園地に出かけた。
大阪府の北に位置する大きな遊園地だ。
開園から遊びに出かけた彼らは、15時頃には、目当てのアトラクションを乗りつくしたという。
「晩御飯の予約をしていたので、次で最後にしようという話になりました」
そこで2人が選んだのが、当時、テレビCMでも大々的に宣伝していた、人が演じるお化け屋敷だった。
某作家の某作品に登場する、孤島に建つ武家屋敷で起こる連続殺人事件をテーマにしていた。
30分程並び、後ろの親子と計4人で出発することになった。
作品の時代背景に合わせ、着物を纏ったスタッフに注意事項を説明されて、屋敷に足を踏み入れた。
「僕が先頭で進みました。単純に並んでいた順番ということで、そうなったと思います」
いくつかの部屋や廊下を通り過ぎて、次の部屋の入口に立ち、中を伺った。
「あれ、っと思いました。男の人が立っていたんです」
60代ぐらいの痩せた男だったそうだ。
「部屋の隅に置かれた、舞台装置の棺桶を覗き込んでいました。僕達に気がついたようで、顔だけこちらに向けましたが、すぐにまた元の体勢に戻りました。変わった演出だなと、そのときは思いました」
Fさん達は、その男に注意を向けながら、ゆっくりと部屋の端を進んだ。
すると、まったく別のところからお化けに扮した演者が飛び出してきた。それに追い立てられるように出口を抜けたという。
「彼女と帰りの電車の中で、その男の話しをしました。正体を推測しましたが、結論は出ませんでした」
Fさんは、アイスコーヒーを飲み干して続けた。
「ただ、2人の認識に違いがあったのです。彼女は、こちらを見た男の顔は怒っていたと言うのです。驚きました。僕には、笑っているように見えましたから」
Fさんは、そのことを彼女に伝えなかったという。
「表情の違いについては分かりませんが、やはり演者だったということは?」
私は、言った。
Fさんは、首を横に振った。
「それは、ないと思います。だって、その人の服装はポロシャツにスラックスで、手には中身の見えないビニル袋をぶら下げていたのですから」
その遊園地は、いまはもうない。
「200億円を盗み、姿を消していた山口健二がさきほど注目の強盗事件の話題です。一週間前、銀行から逮捕されたという事です」
テレビのアナウンサーが言った。
どうやら、この山口っていう男が、どこかの銀行のコンピューターに侵入して、200億円盗んで捕まったらしい。
僕は家族みんなに向かって言った。
「この男、なかなかやるねぇ。盗むならやっぱりこれくらいの金額を盗まないと。まぁ、捕まっちゃたけど、200億はすごいよね、盗人の鏡だ。
誰も傷つけていないのも気に入った!
でも、これだけコンピューター使えるほど頭イイなら他のところで頑張ればきっと成功したのにもったいないね」と。
そして、その1時間後の別のニュース番組での事だ。アナウンサーが言った。
「ニュースを続けます。今日、コンビニ強盗に入った池崎正人が捕まりました」と。
「今日の午後2時ごろ、池崎正人が中区のコンビニに強盗に入り、ナイフで店員を脅し、レジから2万円を盗もうとしました。しかしその店員に逆に抑えこまれ、警察に通報、その場で現行犯逮捕されました」
「アホか?この男、たった2万円!?それで世間に名前と顔がテレビに流れちゃって。人生すべてを棒に振って。はずかしい限り。200億の男とは雲泥の差」と僕はあきれて言った。
すると妻が僕に対しこう言った。
「あんた、来月からこずかい3000円減って7000円だからね」
「えっ!?どうして!?」
「圭子の塾代にお金がかかるからよ」
「いや、でも、いきなり7000円って、、、」
「仕方ないでしょ、全部あんたの稼ぎが少ないからだよ!あたしもパートで忙しいからね。文句言わないの!」
コンビニ強盗の気持ちが少しだけ分かった僕だった。
昨日までの私が馬鹿みたい嘘みたい。朝起きたら、死ぬほど悩んでいたことが、何も解決されないままに、イライラだけが、きれいさっぱり消えていた。
暗いトンネルが終わらなかったらどうしようと悩んでいた私、さようなら。こんにちは、新しい私。ブラトップを裸の上半身に滑らせながらふと思った。でも私が感じていたストレスって、いったいどこにいっちゃったの?
「お答えしよう」
「あなたは?」
「私は宇宙船地球号の船長」
「宇宙船地球号の……船長?」
寝室から聞こえた声に振り返る。突然現れた不審者に叫び声を上げることも忘れて、私は馬鹿みたいに鸚鵡返しをした。
「ストレスとはなんだと思う」
「今この状況がまさにそうよ」
「そういうことではない。ストレスとは力のことだ」
「知ってるわよ」
「では力とは何だ」
「何かを変えようとする……動力?」
「そうだ。具体的にはこれのことだ」
船長は私の枕の下から紫色のゴムボールのようなものを取り出した。見るからに強い弾力と光沢がある。
「これはお前が昨晩までに溜め込んだストレスだ」
「これが、私のストレス……」
「おっと、触るな。また灰色の絶望を味わいたいか?」
私は伸ばしかけた手を引っ込める。船長は左手を私に広げて制したまま、右手で私のストレスを揉み始めた。その手つきがどうにもいやらしく、私は胸を隠しながら船長をにらみつける。
「そのストレスをどうするの」
「まずもって地球を物理的に回転させる動力として使う。その上で、余剰のストレスはさらにストレスを生み出すために使われ、経済を回し、紙幣を刷り、生産し、消費する」
「じゃあ私って、宇宙船地球号の乗組員ではなくって」
「そう、乗組員ではなく、燃料だ」
そう言うと船長は私のストレスをむしゃむしゃと食べ始めた。あっと声を上げるまもなく、船長の鋭い歯は私のストレスを噛みちぎり、瞬く間に飲み込んだ。
呆然とする私に「じゃあな、ストレスがたまったらまたくる」と言うと船長は消えた。残された私はガラスのない窓枠のような、底のないコーヒーカップのような、目的語のない他動詞のような気持ちで立ちすくんでいたが、はっと足下を見ると、そこにはたった今生まれた私の小さなストレスが鳴き声をあげていた。可愛い私のストレスちゃん、私はあなたを飼い慣らし、芸を仕込み、船長の次の襲撃に備える。船長、次は私のストレスちゃんがあなたののど笛を掻き切るわ。覚悟していて宜しく候。
戸村智宏が自身の異常さを自覚したのは八歳の頃だった。
小学校のクラスで飼育していたハムスターが死んだ。原因は共食いであり、凄惨な血塗れのケージを前に級友達は泣き、はしゃぎ、嘔吐する者まで出る始末だった。
そんな喧噪の中、智宏は彼等の様子を不思議そうに眺めていた。
ハムスターが共食いで死んだ――それだけのことに、何故、皆がそこまで感情的になっているのか理解出来なかった。
彼は単純な疑問から、それを級友達に問うた。
「ハムスターが死んだだけでしょ?」
瞬間、教室がシンと静まりかえった。戸惑いを含んだような視線が、一斉に彼に突き刺さった。
幼いながらに、智宏は理解した。
彼等と自分では、事象の捉え方が違うのだと。そして、それは異常なことなのだと。
幸いにも、智宏は頭が良かった。自身に欠落したものが<共感力>であると知った彼は、それを補うべく、級友達の挙動を注視するようになった。
どういった時に、人は喜び、怒り、泣き、笑うのか、それらを学んでいった。知識や技術として。
中学、高校と進学していく中で、智宏のそれは磨きがかかっていった。共感力の欠落は誰にも見破られず、感情を研究する内に、彼は相手を喜ばす術を身につけていった。
何時しか智宏は人気者を演じるようになった。その方が何かと都合が良かったからである。
人に好かれたいとは思わなかった。そもそも「好き」という感情が解らない。
大学を卒業した後、一流企業に就職した智宏は、28歳の時に結婚した。それが普通なことだと判断したからだ。
相手は上司の紹介で知り合った女性だった。
彼女を伴侶に選んだ理由は、特になかった。強いて言えばタイミングが良かっただけである。愛情など欠片もなかった。
妻は気の利く女性だった。何でもこちらが言う前に、察してやってくれる。だから彼女が喜ぶ言葉を何度も囁いた。本音では便利程度にしか思っていなかったが。
やがて時が経ち、子も生まれ、順調に彼は歳をとっていき、ついに最期の時が来た。
見事なまでに理想の男を演じてきた彼だが、最後の最後で、寄り添う妻に、言う必要のないことを言ってしまった。
「今までありがとう。君を愛していなかったのに」
妻は静かに微笑んで、応えた。
「どういたしまして。私も愛していなかったけれど」
それを聞いた智宏は、ただ、小さく頷いた。
「君は上手だったな、僕よりも」
それが、彼の臨終の言葉だった。
本当の悪夢は、3時37分の木漏れ日なのだと彼女は言っていた。
西向きの窓で屈折した暖色の光が、ピンと張ったシーツに零れる温かい時間。
昼というにはもう遅いけれど、まだ死にきれない灯火。
音の遠い非現実が、何よりも彼女の心を締め付けるのだという。
「生々しく残虐な夢やおどろおどろしい化物に喰われる夢より、ずーっと悪夢だと思う」
無糖のアイスコーヒー。頬杖をしながらストローを咥える彼女の、耳から揺れ落ちた髪は栗色だった。
僕はどう声を出したらいいか分からなかった。
残り少ない歯磨き粉を絞り出すくらい、部首だけが転がる脳内から文字を絞り出そうとする。
「でも、それって夢でしょう?」
中身を失ったストローの包み紙を弄る僕を見て、彼女は少し首を傾げた。
じっと見つめてくる無垢な、でもどこか重たげな瞳。
綺麗に流れた前髪越しに、『あなたって、小さい頃の夢は小学校の先生だったでしょ』と言わんばかりに見つめてくる。
三年の月日は確かに心を近づけたけれど、深淵はずっと深く重たい。
彼女の選ぶ言葉や仕草は、いつも端的だ。
絵本を読んでいるように情景が浮かんでくる。
なのに、その節々を汲み取ろうとすると砂のように流れ落ちてしまう。
言語としては簡単なはずなのに。淡い。
「夜のつぎには朝が来るのだから、昼の始まりの朝を生きればいいんじゃないかな」
言い終わって、気づく。
彼女の視線はもう既に、窓の外へと向けられていた。
僕は一体誰を見て、誰に話しかけていたのだろうか。
行き場を失った僕の言葉は、喫茶店の艶めいたテーブルの上に転がってしまった。
何も言わず、じっと窓の外を見つめる彼女。
そして、オレンジの外界から僕を見据える彼女の幻影。
言葉は届いていたのだ。が、きっともう遅すぎたのだろう。
ガラス越しの彼女は寂しそうに笑いながら、
「でも、夜はきっと、昼でできているから」とだけ呟いた。
三年の月日は、ずっと僕たちを近づけてしまった。
車窓に映る青みがかった僕は、前よりずっと実体を持っている。
彼女と同じ病に罹った乗客たちを、西へと運ぶ列車。
皆一様に、淡くなった面影を窓の外から見つめているのだ。
今朝の夢に現れた三年前の彼女は、きっと木漏れ日なのだろう。
もう1駅として、列車に乗っていることは難しかった。
皺と埃のスーツで詰まった空間から這い出し、ホームのベンチでぼーっと何かをみつめる。
そして、反対側へと向かう列車に身を任せた僕は、もう車窓にいなかった。
足裏にさらりと触れる。心地よかった。
ヤシの実の繊維を貼り付けたスリッパの内側。
「きもちいい」
洗い髪をタオルにまとめた彼女は呟いた。
ここまでくるのにどれほどの時間を要したであろう。
俺は彼女に振られて絶望の淵にいた。
ようやく叶った南の島での旅行先でだ。
ホテル近くのビーチで振られた俺はよろよろとヤシの木にもたれかかった。
このまま消えてなくなってしまいたいと思った。
そのとたん、俺は消えてなくなった。
正確には完全に消えたわけではない。
俺の視界には海が広がっていた。
さっきまで見ていた海だ。彼女の肩を抱いて一緒に眺めていた。
そのとき彼女がおならをしたのだ。緊張したのかリラックスしすぎたのかは知れない。だけれど、思わずくせえと笑ってしまった俺に彼女は平手打ちをかました。そして別れると言いおいて去っていったのだ。
モテモテの彼女のプライドは海よりも深く山よりも高かった。
俺は彼女を本当に本当に好きだった。
どんな形でもそばにいたかった。
だけれど、俺は消えた。消えて、そして。
「あら、これもよさそうね」
女性の声が聞こえて、ぶちりと俺はもぎ取られた。
大きなかごを持った女性がヤシの実を集めていて、俺もころりとかごに入れられた。
そうか、俺は消えて、そして。
そのとき目の前にあったヤシの実になってしまったらしい。
そのまま俺はどこかの工場に連れて行かれた。
半分に割られてジュースと中の白い果肉をすくい取られた。
皮だけになった俺はさらにそぎおとされ、きれいに洗われ陰干しされてすっかりただの繊維になって、丁寧に編まれてスリッパの内側に縫いつけられた。
そうして出荷されて日本語の飛び交うデパートに並んだ。自然派化粧品売り場の一角のそこには「ヤシの実のスリッパはいかが」と書かれていた。
そこで何日かぶらさがっていると、彼女がきた。
「あ、これいいかも」
ぷちりと俺を壁から救いあげ、買い物かごに入れた。
そして今俺は彼女の肌に触れている。
視界いっぱいに風呂上がりのピンクのかかとがあった。
夢にまで見た彼女の部屋、そのすみずみまで連れて行ってもらえる。
彼女のそばにいられるならどんな形でもよかった。
幸せだった。
やがて夏がすぎ秋がきた。
「もうそろそろ寒いし、これもよく使ったなー」
彼女はヤシの実スリッパをぽいとゴミ箱に入れた。
「おい、君は探偵ごっこでもしているつもりか?」
ずっと後を付けてくる子どもの腕を掴んで、私はそう問いただした。
「あたしは、自分の父さんを探してるだけよ!」
そう言うと子どもは、ポケットから一枚の写真を出して私に見せた。
「ほらこの写真の人、あんたにそっくりでしょ?」
確かに、顔や背格好は似ていたが、写真の中の人物は自分の知らないコートを着ていた。
念のために母親の名前を確認したが、まったく身に覚えがなかった。
「悪いけど、この人は私じゃないし、私は君の父さんじゃないよ」
そう言って立ち去ろうとすると、今度は子どもが私の腕を掴んだ。
「母さんは、あんたと夢の中で出会って、それであたしを夢の中で産んだの」
私は住む家がないので、今はもう使われていない地下鉄の駅をねぐらにしていたのだが、結局、さっきの子どもも私のねぐらまで付いてきてしまった。
「帰る家がないならここに居てもいいが、私は君の夢や父親とは関係ないからな」
私がそう言うと、子どもは不満そうに口を尖らせながら、小さな明かりに照らされた地下鉄の暗い駅を見渡した。
「あんたは頼りない父さんだけど、ここは静かで悪くない場所ね」
子どもは、私のねぐらにすっかり居着いてしまったが、特に迷惑をかけることもなかったので放っておいた。
「一つ分からないことがあるのだけど、君が夢の中で産まれたのなら、なぜ夢の中じゃなくて今ここにいるんだ?」
私は夕飯を食べたあと、地下鉄のベンチに寝転がりながらそう子どもに話しかけた。
「あたしは、夢の中では母さんと暮らしていて学校にも通ってるのだけど、目が覚めているときは、親も、家もないの」
子どもの話は、とりとめのない空想にしか思えなかったが、誰にだって好きなことを空想する自由ぐらいはあるだろう。……そんなことを考えていると、薄暗い地下鉄の廃駅に、音もなく突然電車が入ってきた。
駅で停車すると、まぶしい明かりに照らされた車内から一人の女性が出てきた。
「さあ二人とも、早く家に帰りましょう」
私たちは、その電車に乗って家に帰り、家族三人で暮らした。
子どもは学校に通い、女性と私は共働きをしながら子どもを育てた。
「時々、これが私の本当の人生なのか、それとも夢なのか分からなくなるんだよ」
食卓を囲みながら三人で食事をしているとき、私がそう言うと、子どもと女性はくすくすと笑う。
「父さんの空想好きは、いつものことだから」
「何してるの」
花弁の声が降り注いで、あやうく溺れるかと思った。視界の端に人影を認め、鉛を装って答える。
「浮かんでる」
二十五メートルプールの真ん中で仰向けになって漂っていた。からだが浮かぶ感覚も、視界が仮想空でいっぱいになるのも、照りつける陽燈の温かさも好きだ。
「楽しい?」
考えたこともなかったから、どうかな、と曖昧な返事をした。からだを起こして立ち泳ぎしながら声の主を探す。
幽霊がいた。
透けるような肌、長い髪、華奢なからだ。僕に似ていると直感的に思って、いや僕が彼女に似ているのか、よくわからなくなった。水槽室にいるってことは、僕と同じ異端なんだろう。でも本当に?
プールから上がると、彼女は近寄ってきて僕のからだをじろじろと見た。何も映っていないような瞳で。
「君も入る?」
「遠慮しとく」
僕は背を向け、プールの縁に座ってわちゃわちゃと水を蹴った。彼女は少し離れたところに腰を下ろして、施設着のポケットから小さな本を取り出した。
「濡れるよ?」
「水飛ばさないで」
「なんでここに来たの?」
「実験」
彼女の言葉を引き金に、周囲できゅいきゅいと駆動音が鳴り出した。水槽室の壁面に幾つもの目が出現し、好奇の光を浮かべてピントを調節する。
途端にすべてが褪せてしまった。お膳立てされた高揚。強制され見世物にされる関係性。一瞬でも忘れていた自分が恥ずかしく、腹立たしかった。
飛びこむ。彼女の非難する声が聞こえた気がした。両腕で水をかく。浮上して振り返る。
「僕、アオっていうんだ」
「仮想空とプールみたいな名前」
「皮膚に透ける血管の色だよ。君の名前は?」
「シロ」
はっとする。からだが震え、波紋が広がる。彼女の様子を窺う。何も映していない眼差し。
僕たちは鉛色になれなかった。強固な外殻も持たずに生まれてきた。脆弱な存在として扱い、憐れみや蔑み、嘲りや忌避を持って浴びせる単語を、そのまま彼女に名づけた奴が憎かった。けれど、その怒りもプールの水面のように凪いでいく。
「昼の光みたいな名前」と僕は言った。
「私たちの骨の色よ」
彼女は少し笑って、左足の施設着の裾を持ち上げた。小さな足の上、足首のあたりから急に細くなっている。僕は吸い寄せられるように彼女に近づくと、剥き出しの脚の骨を見た。こんなにも強固でしなやかな芯が、僕の内側にもあるのだろうか。塗れたままの手でそっと触れると、彼女が息を吐くのがわかった。
僕らの生徒会長は誰よりも常識を持たない。生徒会室にはもちろん彼のすき焼セットがある。すき焼を囲みながら深夜まで会報を作っていたのが一昨日のことで、昨日の祝日は寝不足の体を引きずり生徒会役員みんなで文化祭の準備をした。そして今日、生徒会長は学校をやめた。
二時限目が終わってすぐに顧問のカネっちに呼び出された。
「何か、聞いてへんか」
「いえ、なにも」
カネっちは狼狽えていた。巨漢が動揺すると空間がひずむ。悩み事でもあったんやろか、でも家の人も電話出ぇへんしなあ、文化祭どうすんねんあいつ、等々ひとりで喋り、なんだか僕にも狼狽えてほしそうだったから頭を掻いていると、
「まあええわ。また呼ぶ」と言い足早に撤退していった。
教室に戻ると生徒会長は家族ごと夜逃げしたことになっていた。確かな情報をつかんだ奴がいるらしい。あまり興味は持てなかった。どのみち生徒会長がもういないことは事実のようだ。
授業をさぼって生徒会室をのぞいてみたら、すき焼セットはまだあった。僕はそれを棚の奥のほうに仕舞った。窓が開いていて、なびくカーテンの向こうから笑い声がした。保育園児が散歩でもしているんだろうか。カーテンはとても明るい光に染まっている。
ひんやりした階段を下った。遠くで授業の音がした。玄関を出てグラウンドに向かった。広いグラウンドだ。昨日の僕らがそこでキャンプファイヤーの薪を組んだり、クラスごとの区画線を引いたりしていた。骨董品レベルのラジカセで、蝉の声に負けないくらいの音量でロックバンドの曲を流しながら。
ダレてくると生徒会長がどこかからホースを引張ってくるものだから、皆で水を空高く撒き虹を作って遊んだ。彼は本当に常識がないから、タバコから帰ってきたカネっちが「なんやお前ら!」と怒鳴ると、
「すんません、あんまり空が青かったんで」なんて全く反省のない声で謝りながら最高の虹を出現させるのだ。
生徒会長の不在を受け入れることができるか、僕には自信がなかった。校舎の陰の草地から見渡すグラウンドには誰もいない。園児の笑い声もとっくに消え、蝉の声と、時々通る車の音だけ。昨日の痕跡を探してすぐに見つけた。同じ草地の中に、回収し忘れたラジカセ。僕は若干湿ったカセットテープを取り出し、ポケットに入れた。
さすがにホースは見つからなかった。だから昨日の虹を空に浮かべた。快晴だった。そのまま宇宙へと抜けていく青だ。