第224期全作品一覧

# 題名 作者 文字数
1 夢の世界へ 糸井翼 683
2 失楽園 此処から、 小説作家になろう 587
3 宵闇のパンドラ 千春 949
4 井の中の蛙 kyoko 929
5 あふ、あふれ、あふれて、 テックスロー 986
6 悪いフランス人形 euReka 1000
7 春を吸う Y.田中 崖 1000
8 記されざるもの 志菩龍彦 995
9 幻想 霧野楢人 1000

#1

夢の世界へ

私の部屋からは広い青空がよく見えた。気持ちいいどこまでも広がる青空を見ると私は悲しくなった。首輪に触れた。私には自由がない。広い世界なんて存在しないのだ。私は想像した。暖かい日差しを浴びながら、春の風が吹く道を、春の草花の香りを嗅ぎながら、私の歩きたいスピードで歩く。夏には磯の香りが広がる海に向かって飛び込む。イカ焼きの屋台でイカ焼きを買って、夕暮れの匂いとともに歩き食いする。涼しくなれば山に登って木の実を食べる。他の人と同じように、やりたいと思うことを、やりたいようにやる。行きたいところに行く。雨の日には思いっきり濡れる。寒い日には好きな味のお茶をホットで、おしゃれな喫茶店で飲む。

それは突然訪れた。私から首輪が外された。部屋からはきれいな青空と気持ちいい日差しを感じられた。本当の意味で青空を、日差しを、空気を感じられるのは、自由になれるのは、そのチャンスは今しかないと思った。体が勝手に走り出した。部屋を出て、ドアをいくつもくぐって、最後のドアを開けた。

外の世界は広く、うるさく、せわしなく、そして全てが大きかった。青空は大きな建築物でほとんど見えない。小さい私には日差しは届かず、湿っぽい薄暗いところを歩かないといけない。周りにはたくさんの人がいるが、彼らは私には目もくれない。避けようともしない。ぶつかって来られても、舌打ち一つで通り過ぎる。外に出ても私は自由になれるわけではないんだ。

私はいつもの部屋に戻った。今は、首輪はついていない。でも、きれいな青空の晴れの日でも、私は首輪があったときと同じく、体育座りして、この部屋から一歩も外に出ていない。


#2

失楽園 此処から、

「おはようごさいます。神様」
グレースサーガ( GraceSage )様はいつものとおり瞑想なさっている。
此処(天国)にも距離はある。 神様の近くはぽっかりと空間が感じられ清浄な空間になってる。
私は一歩踏み出して膝ま突いて頭を神様の足元に擦り付けて土下座してお願いをした。

「おもてを上げて顔をみせて」
 うっすらと眼を開け瞑想を中断なさった。お顔を拝む。

「退屈ならのんびりと寝ていたらいいのに」
 優しげな声です。しかし、飽き飽きしてもうどうしようもない。此処には暮らせない。せずにいられない。 

「なにをやろうというんですか?」
答えられない。何かしたいのだけと飽きているからムズムズするんだ。何ができるか? わからない。
此処では何もすることがない。楽しく暮らして。 時に歌を聞いたり花の咲くのを楽しんだり。
柔らかな霞の先に友や麗人。恋人とかたりあう。 其れが楽しい時間も長くときは悠久。いまだに知らぬ人と出会うことも多いが話す言葉は少なくなっている。 だから何かやりたいやらずにいられない。

「ふぅ、しょうがないですね」
神様はどんな顔をしているのだろう? 伏せていた眼を上げた。優しげに朗らかに微笑みを投げてくださった。神様の御本意は? 何ができるのだろうオレに。

 唯はっきりと判ったのは此処を出て行くということだった。どこへ行くのだろう? 何をするのだろう。 何が出来るのだろう?


#3

宵闇のパンドラ

夕方、どうにか片をつけた仕事場を後にして、才香は繁華街に向かった。今日の行き先はなじみの店とは違う。歩き慣れないその道を前後を確認しながら歩いて行く。
到着した居酒屋で会ったのは一つ年下の男だった。友達の旦那の友達。名前は憲司だと言った。

せっかく忙しい合間を縫っての休息だ。楽しんでいこう。
初対面の憲司には最初は多少の気は遣ったがすぐに打ち解けた。お酒の力は偉大だ。
夜も深くなり二人とも深酔いする時間。才香の悪い癖が顔を出し始める。

「私もう今年で31才よ。結婚するにしたってスタートが遅くない?」
「結婚ってそんなに必要なのかなと俺は思うけど。」
「男はそう思うのかもしれないけど出産なんて歳を取ったらチャンスすらなくなるのよ。」
「そう言われると弱いね。」
才香はジョッキのビールをぐいっと飲み干した。「もう一杯お願い。」
「どんな男がいいの?」
「一緒にいて楽しい人。趣味が合う人がいいな。」
「趣味っていうと?」
「バイク。熱く語りたいね。」
「バイク乗りの女の子なんてモテるんじゃないの?」
「同じ熱量で話せる人がなかなかいないのよ。」
「そんなに愛せるものがあるなら他に何もいらない気もするけどね。」
「突き放すようなこと言わないでよ。」
「俺は君みたいに熱中できるものがないから羨ましいってことだよ。」

帰り道、憲司と別れた才香は酔っ払った頭で今日の時間を振り返った。

「そんなに愛せるものがあるなら他に何もいらない気もするけどね。」

私って周りに流されて結婚結婚って騒いでいたけど、それって私に本当に必要なんだろうか。周りの幸せに勝手に取り残された気になって躍起になっていただけじゃないのかな。
才香は一つ深呼吸をした。おぼつかない体と頭でどこまで確かに考え切れているのかわからない。ただ彼のかけてくれた言葉に私の気持ちは深く理解してもらえた気がした。
そうだ、私は自分の好きなものに正直でいよう。私は私らしく生きていきたい。私には私の幸せがあるはずだ。
おぼつかない足取りで街を歩くと、目の前にライトアップされたショーウィンドウが立ちはだかった。真っ白なドレスとタキシードのペアのマネキンが飾られてある。
そっか、あんなに苦しかったのにな。
ネオンの煌めく街を歩くと、才香は夕方の自分よりもずっとずっと前に進めている気がした。


#4

井の中の蛙

先週冠水した道路に、タライみたいな水たまりができていた。
俺の通勤路は、田んぼに挟まれた田舎道だ。
のぞき込むとカエルが数匹、わずかな水草を取り合っている。
「おい」
俺は言った。
「そこに世界があるぞ」
目を上げると大きな田んぼが広がっている。
井の中の蛙・・・とつぶやいてそこを去った。



日照りが続き、半分ほどの大きさになった水たまりをまた覗いてみた。
底の方でカエルたちはじっとしていた。
俺は靴先を水たまりに入れて表面をちゃぷちゃぷ揺らしてみた。だがカエルたちはそこから動く気配はなかった。この暑さに弱っているのかもしれない。




その次の週、俺は上司から海外出向の打診を受けた。
ぼーっと帰り道を一人歩く。
海外? この小さな町から出たこともない俺が?
ちょっと傷んだ物を食べたらすぐに腹を下す俺が?
今のままでも全然不満はないじゃないか。
小さな営業所だけど仲間とは上手くやってるし事務員にちょっと気になる子もいる。
家に帰れば親の作った温かいご飯待っているし掃除も洗濯も何もしなくて良い。
それが突然知らない場所、言葉も食べ物もまるっきり違う、知ってる人も誰もいない別世界に一人?
「死ぬんじゃないか・・・?」
ふと足下を見ると、からからに乾いた元水たまりに干からびたカエルがいた。
俺は息をのむ。
底の方にこびりついた泥の中に、水草に絡まってわずかに卵があるのを見つけた。たまらなくなって周りの泥ごと水草を掬い、数歩先の田んぼへ放り投げる。
ぽちゃんと湖面がわずかに揺れて、後は遠くでカラスが鳴くだけだった。
俺は泥だらけになった手を見つめた。
井の中の蛙。
きっと俺はこのままこの町で結婚して子どもを作ってそして死ぬのだと、その人生に疑問を持ったことは一度もなかった。
だけど、その子どもはもしかしたらここを飛び出すのかもしれない。
年老いた親がぼそっと、海外に出るチャンスが一度だけあったんだとつぶやくのを聞いて、俺の知らない世界へ行くのかもしれない。
それがほんの少しだけ羨ましいと、初めて思った。
「おい・・・」
声が掠れる。
「そこに世界があるぞ」




手を拭って、俺は電話を取りだした。
上司の声を聞きながら、田んぼの向こうにある空を見上げる。
別世界などではない。
向こうの空も、きっとこの空と繋がっている。


#5

あふ、あふれ、あふれて、

 ゴバン、ノ、バンゴウフダ、ヲ、オモチノカタ、ニバン、ノ、マドグチマデ、オコシクダサイ
 
 窓口から左手を挙げながら「5番の番号札をお持ちのお客様ー」と待合室を見渡す私は名前を斎賀由美といって、窓口業務は四年目の二十六歳、自分で言うのも何だが白い肌が自慢で、暗い紺の制服姿は支店内で一番似合っていると思う。ぴんと肘から先まで伸ばした指先には淡い光沢のマニキュアが蛍光灯を跳ね返して光り、同じく蛍光灯はポニーテールの頭を円く照らしているはずだ。
 挙手の姿勢はそのままに、首と目を動かして待合室をもう一度ぐるりと見渡すが、宝くじの当選番号を確認するように私の顔と手元の番号札を見比べて知らんぷりをするおばあさん、変にどや顔で私を真正面から見て首を振る青年と中年の間の男性以外には誰もおらず、伸ばした手を下げようとしたとき
「俺、俺だ、俺だよ」
 と完全に死角から5番の札を差し出しながら男が席に着いた。一瞬驚いた私はしかしそれをプロ根性で隠して
「失礼しました。本日はどのようなご用件でしょうか」と笑顔を崩さず男に尋ねた。
「俺なんだけどさあ、俺俺、分かる? 俺俺」
 さあ困ったことになったなあと私は二つの可能性を頭の中で走らせた。脳の一部は過去関わりを持った男性を洗い出し、コンマ二秒、こんな男性は知らないぞと結論づけた。三十前半、チェックのシャツに無精髭、メガネの奥には目やに、少し優しげな目つきといえなくもないが、まあ知らない顔だ。脳のもう一部分はさらに飛躍をし、よくある特殊詐欺事件の亜流? 俺俺詐欺? でも本人が窓口来るのおかしくない? にわかに緊張感がはしり、下げた手をテーブルのしたの緊急呼び出しボタンに添えたとき、フル回転する脳の間からぽろりと子猫が一匹こぼれ出た。これは、これは、昔飼っていた猫だ。もっちゃん? 名前を呼ぶと子猫はにゃーん。と鳴き、そこからねずみ算、いや猫算式に頭の中でもっちゃんが増殖し始めた。目の前の男、よくよく見れば、体つき、もっちゃんっぽい。机の上で丸めた手、もっちゃんっぽい。ああ、もっちゃん、もっちゃん、今はもういないもっちゃん、もっちゃんもっちゃんもっちゃん、こんなところにいたんだね、
「もっちゃん?」
「違うよ。誰だよもっちゃんって。東谷啓介だよ。お前の又従兄弟の義理の弟だよ」
 誰だよそれ。遠すぎてそんなやつ知らないよ。知らないにゃん。


#6

悪いフランス人形

 引越しの荷物の中から、見知らぬフランス人形が出てきた。
「ここは日本なのだから、ボンジュールじゃなくて、こんにちはですね」
 フランス人形は衣類に埋もれた体を起こし、青い瞳で私を見つめながらそう言った。
「突然のことでびっくりしているかもしれませんが、わたしにも色々と理由がありまして……」
 彼女は、悪いフランス人形に追われていて、急に身を隠した場所が、ちょうど私の引越しの荷物だったということを説明した。
「そこでお願いがあるのですが、しばらくわたしを、この部屋でかくまって欲しいのです」

 それから、数時間かけて荷物の整理を終えた頃、玄関のドアをコンコンと叩く音が聞こえた。
 ドアを開けると誰も居ないので変だなと思いながら部屋に戻ると、黒い服のフランス人形がそこに立っていた。
「ここに青い瞳の女の子がいるはずなのだけど、あなた知らない?」
 ああ、これが例の悪いフランス人形か、と思って部屋を見渡したが、最初に会ったフランス人形の姿は見当たらなかった。
「まあ、この部屋のどこかにいることは分かっているのだから、そのうち出てくるでしょ」

 さらに三日後、近所のゴミ捨て場に行ったとき、私は、青い瞳のフランス人形がゴミの中に埋もれているのを見つけた。
「こんなぼろぼろの姿になってしまいましたが、またお会いできて嬉しいです」
 仕方なく青い瞳のフランス人形を保護して部屋に戻ってくると、悪いフランス人形はこちらを一瞥し、素っ気ない態度でおかえりなさいと言った。
「せっかくその子を痛めつけて追い出したのに、また連れ帰ってくるとはね」
 私はその言葉を聞いて溜息をついた後、悪いフランス人形を部屋から追い出した。
 彼女たちの喧嘩に介入するつもりはなかったが、まずは安全を確保しなければならないと思ったからだ。

 私は悪いフランス人形がいなくなると、ぼろぼろになった青い瞳のフランス人形の、服や体をキレイにしてやった。
 彼女は私にお礼を言った後、ぜひ自分に名前を付けて欲しいと頼んできたので、適当に可愛い響きのする名前を付けてやった。
 するとその瞬間、青い瞳のフランス人形は眩しい光に包まれながら体が変形していき、人間の女性の姿になった。
「わたしの封印を解いてくれて、ありがとう」
 それは、どうも。
「実はわたし宇宙人で、地球を侵略するために派遣されたのですが、あなたは良い人なので宇宙人に改造してあげます……っていうのは嘘で」


#7

春を吸う

 追い詰められた男が葉巻に火をつけ、咥える。煙を吐き出して不敵に笑う。銃声。

 水底のように薄暗い部室でシュノーケル音が三つ漏れていた。陸は端末に映る映画をぼんやり眺める。左に座る海は電子本の頁を手繰り、右の空は長机に突っ伏している。
「陸、それ面白い?」海が問う。
「普通」
「なんか面白いことない?」
「ない」
「そういえば」空が伏したまま呟く。「B組の森と原、付き合ってるだろ」
「嘘、原さんタイプだったんだけど」と海。陸が、はいはいと適当にあしらう。
「あいつら二人で〈鼻〉外したらしい」
 一瞬の間。探るように細く息を吐く。
「どうして」
「さあ……心中とか噂流れてるな」
「ヤったのかな」
「かもな」
「空、なんか知ってんの」
「行こうぜ」
「どこに」
「屋上」

 空が先を歩き、陸と海は黙ってついていった。人気のない四階のさらに上、埃の堆積した階段を上る。突き当たりにはドア。
 どうやって手に入れたのか、空はポケットから鍵を出し、差しこんで回した。躊躇いなくドアを開く。どっと勢いよく風が吹き、潜水服に包まれたからだが押し流されそうになる。海がおどけて言う。「春一番とかいうやつ?」
 そっとドアを閉める。直後、陸は空の腕を掴んだ。
「何だよ」
「死ぬ気か」
 白い手袋に覆われた空の手が、象みたいに長いチューブ状の呼吸器〈鼻〉を外そうとしていた。まっすぐ陸を見て言う。「死なない」
「わけわかんねえよ。説明しろ」
「信じないだろ」
「信じるよ」
「じゃあ、信じろ。俺は死なない」
「理由!」
「あっ」
 空がぽかんと口を開けた。陸の背後から、倒れる音。誰が? 海が。生白い顔。剥き出しになった本物の鼻の穴から一筋、流れ出る血。
「海!」
 陸が海の〈鼻〉を被せようとする。
「待て」空が割って入る。
「殺す気かよ!」
「落ち着け。よく見ろ」
「ハハッ、すごいな」鼻の下を血まみれにしながら、海は生きていた。「二人とも早く外しなよ」

 それから空も陸も〈鼻〉を外した。ぬるく湿った空気を恐る恐る吸いこむ。黄色や緑が目のなかで明滅し、荒波に花火の咲くような轟音が耳をつんざいた。陸は鼻血を吹いたが空は平気だった。初めは俺も出たとだけ言った。
 空が祖父の部屋からくすねたという煙草を取り出し、陸と海に一本ずつ配った。火をつける。三人は盛大にむせ、ひとしきり悪態を吐いてから、並んで宙に消えていく煙を眺めた。
「空」陸が呟く。「死ぬなよ」
 空は笑った。
「死なねえよ」


#8

記されざるもの

 ざっと300万年程の昔、自然豊かなアフリカ大陸の片隅に、一匹のアウストラロピテクスがいた。猿と人類の中間に位置するこの生物には、個体を識別する「名前」はなく、故にこの雄のアウストラロピテクスを、ただ「彼」と呼ぶことにしよう。
 一見、彼は平凡なアウストラロピテクスに見えた。身長も体重も平均的で抜きん出たものがなく、適齢期にありながらまだつがいとなる雌もいない。
 しかし、彼はにある種の特別な才能があった。
 ある時、縄張りの問題で、彼は別の雄と決闘をすることになった。決闘といっても、まだ動物同士の喧嘩の域を出ない代物である。力任せに相手を殴り、引っ掻き、噛み付くだけだ。
 そんな戦いの中、彼の突き出した拳が、たまたま相手の顎に絶妙にヒットした。顎への一撃は相手の脳を大きく揺さぶり、ついには昏倒せしめるに到った。相手は驚いたことだろう。大した痛みもない一撃なのに、身体が動かなくなってしまったのだから。
 だが、相手以上に驚いていたのは、彼だった。脳震盪という理屈など理解出来ようもないのだから無理もない。
 しかし、それでも彼の脳は「思考」することが出来た。何故、相手が倒れたのか、その原因を追及しようとしたのである。己が行いの記憶を辿り、ついに、顎の一撃が原因なのではないか、という仮定に到った。
 暫くした後、彼はまた別の雄と戦う機会を得た。彼は半信半疑ながら、先日と同じように、相手の顎先を狙って拳を振るった。何の注意もしていなかった相手は、それを見事に食らい、あっという間に大地に倒れ伏した。
 彼はようやく納得した。顎を上手い具合に殴れば、相手は倒れる。理屈は解らないが、そんなものは必要なかった。ただ、その事実さえあれば充分である。
 それから彼は考えた。どうすれば、顎を上手く攻撃出来るかを。彼我の距離をコントロールする方法、油断させて懐に入り込む作戦、最も効率よく殴れる角度、それらを考え、実行した。
 それから数年の後、彼は数十頭の仲間を率いるリーダーとなっていた。「技」を手に入れた彼に勝てる雄はもう一匹もいなくなっていたのだ。皆が彼を認め、彼はその地域におけるアウストラロピテクスの王となったのである。
 しかし、彼の偉大な功績は、記憶にも記録にも残らなかった。
 彼は――「史上初の格闘者」は、アフリカの大地で、骨となり、塵となって、風に消えた。
 彼の磨き上げた「技」とともに。


#9

幻想

 東屋まで来てみたが藍はいなかった。霧のような雨を受けた葉があちこちで鈍く光っている。僕は東屋に入り、ベンチに座って林内を眺めた。藍にも何度か見せた景色だった。
「みんな景色だと思い込むの」と藍は言っていた。「そこに自分も関係しているなんて、少しも思ってないみたい」
 だから彼女は教室に蛇を放ったのだ。十八匹のジムグリ。阿鼻叫喚の地獄絵図を眺めながら藍は冷たく笑った。
「どうせ自分の親が突然自殺なんかしたら、こんなふうに慌てるんでしょ?」
 耳を澄ます。散策路を挟んだ先に広がる茂みで鳥が囀っている。キビタキが低い木々の間から遊ぶように飛び上がり、弧を描いてまた茂みに消えた。喉元の黄色い残像。周囲のような高木がないから羽虫を捕まえやすいのだろう。整然と並ぶムシカリの若葉が風に触れて踊った。
 茂みの中央で、太い枯木が折れた幹を空に突き出している。開けた空間は巨木が生きていたことの証明だ。その痕跡の中で新しい木々が旺盛に伸びてゆく。分解された巨木の体を取り込みながら。
 藍の行方を他に考えたが思いつかなかった。ここへは一人でも通っていたようだ。だから自然が好きかと聞いたら、藍は怖いと答えた。
「じゃあ来なけりゃいいのに」
「声が聞こえるの。聞かなきゃ」
 ただの幻聴だろうけど、と言うのでどれだけ本気にすれば良いのかわからない。開けた空間のどこかから聞こえるらしかった。洞穴の奥の風のような、あるいは無数の唸り声のような、叫び声のような。
 耳に届くのは相変わらず鳥の声だ。茂みに巣を作るのか、ヤブサメが自己主張を始めた。虫みたいな囀りは高すぎて藍には聞こえない。藍の言う「声」も、もしかして僕が聞き取れないだけなのだろうか。猛り狂う生き物たちの声か、彷徨う亡霊の声か、両方か。
「やっぱり、幻想じゃねえの」
 口に出してみた。東屋の外の景色は遠かった。「関係しているなんて大袈裟な」
 目を閉じる。草木の興奮を代弁するようにヤブサメの声が尻上がりに響く。シーシーという音を蛇と勘違いする人もいるらしい。教室に放たれ右往左往する蛇。まだら模様のジムグリの幼蛇はやがてわらわら山へと逃げていく。赤い身体をくねらせながら茂みの中へ。低木の間を抜け、枯れ木の根本に、藍の足。
 思わずベンチから立ち上がり勢いでよろけた。
 鳥たちの声にいつの間にか微細な雨音が混じっていた。僕は東屋の柱に掴まり恐る恐る顔を上げる。
 まさか。


編集: 短編