第225期 #9

プールサイド

「何してるの」
 花弁の声が降り注いで、あやうく溺れるかと思った。視界の端に人影を認め、鉛を装って答える。
「浮かんでる」
 二十五メートルプールの真ん中で仰向けになって漂っていた。からだが浮かぶ感覚も、視界が仮想空でいっぱいになるのも、照りつける陽燈の温かさも好きだ。
「楽しい?」
 考えたこともなかったから、どうかな、と曖昧な返事をした。からだを起こして立ち泳ぎしながら声の主を探す。
 幽霊がいた。
 透けるような肌、長い髪、華奢なからだ。僕に似ていると直感的に思って、いや僕が彼女に似ているのか、よくわからなくなった。水槽室にいるってことは、僕と同じ異端なんだろう。でも本当に?
 プールから上がると、彼女は近寄ってきて僕のからだをじろじろと見た。何も映っていないような瞳で。
「君も入る?」
「遠慮しとく」
 僕は背を向け、プールの縁に座ってわちゃわちゃと水を蹴った。彼女は少し離れたところに腰を下ろして、施設着のポケットから小さな本を取り出した。
「濡れるよ?」
「水飛ばさないで」
「なんでここに来たの?」
「実験」
 彼女の言葉を引き金に、周囲できゅいきゅいと駆動音が鳴り出した。水槽室の壁面に幾つもの目が出現し、好奇の光を浮かべてピントを調節する。
 途端にすべてが褪せてしまった。お膳立てされた高揚。強制され見世物にされる関係性。一瞬でも忘れていた自分が恥ずかしく、腹立たしかった。
 飛びこむ。彼女の非難する声が聞こえた気がした。両腕で水をかく。浮上して振り返る。
「僕、アオっていうんだ」
「仮想空とプールみたいな名前」
「皮膚に透ける血管の色だよ。君の名前は?」
「シロ」
 はっとする。からだが震え、波紋が広がる。彼女の様子を窺う。何も映していない眼差し。
 僕たちは鉛色になれなかった。強固な外殻も持たずに生まれてきた。脆弱な存在として扱い、憐れみや蔑み、嘲りや忌避を持って浴びせる単語を、そのまま彼女に名づけた奴が憎かった。けれど、その怒りもプールの水面のように凪いでいく。
「昼の光みたいな名前」と僕は言った。
「私たちの骨の色よ」
 彼女は少し笑って、左足の施設着の裾を持ち上げた。小さな足の上、足首のあたりから急に細くなっている。僕は吸い寄せられるように彼女に近づくと、剥き出しの脚の骨を見た。こんなにも強固でしなやかな芯が、僕の内側にもあるのだろうか。塗れたままの手でそっと触れると、彼女が息を吐くのがわかった。



Copyright © 2021 Y.田中 崖 / 編集: 短編