第225期 #6
本当の悪夢は、3時37分の木漏れ日なのだと彼女は言っていた。
西向きの窓で屈折した暖色の光が、ピンと張ったシーツに零れる温かい時間。
昼というにはもう遅いけれど、まだ死にきれない灯火。
音の遠い非現実が、何よりも彼女の心を締め付けるのだという。
「生々しく残虐な夢やおどろおどろしい化物に喰われる夢より、ずーっと悪夢だと思う」
無糖のアイスコーヒー。頬杖をしながらストローを咥える彼女の、耳から揺れ落ちた髪は栗色だった。
僕はどう声を出したらいいか分からなかった。
残り少ない歯磨き粉を絞り出すくらい、部首だけが転がる脳内から文字を絞り出そうとする。
「でも、それって夢でしょう?」
中身を失ったストローの包み紙を弄る僕を見て、彼女は少し首を傾げた。
じっと見つめてくる無垢な、でもどこか重たげな瞳。
綺麗に流れた前髪越しに、『あなたって、小さい頃の夢は小学校の先生だったでしょ』と言わんばかりに見つめてくる。
三年の月日は確かに心を近づけたけれど、深淵はずっと深く重たい。
彼女の選ぶ言葉や仕草は、いつも端的だ。
絵本を読んでいるように情景が浮かんでくる。
なのに、その節々を汲み取ろうとすると砂のように流れ落ちてしまう。
言語としては簡単なはずなのに。淡い。
「夜のつぎには朝が来るのだから、昼の始まりの朝を生きればいいんじゃないかな」
言い終わって、気づく。
彼女の視線はもう既に、窓の外へと向けられていた。
僕は一体誰を見て、誰に話しかけていたのだろうか。
行き場を失った僕の言葉は、喫茶店の艶めいたテーブルの上に転がってしまった。
何も言わず、じっと窓の外を見つめる彼女。
そして、オレンジの外界から僕を見据える彼女の幻影。
言葉は届いていたのだ。が、きっともう遅すぎたのだろう。
ガラス越しの彼女は寂しそうに笑いながら、
「でも、夜はきっと、昼でできているから」とだけ呟いた。
三年の月日は、ずっと僕たちを近づけてしまった。
車窓に映る青みがかった僕は、前よりずっと実体を持っている。
彼女と同じ病に罹った乗客たちを、西へと運ぶ列車。
皆一様に、淡くなった面影を窓の外から見つめているのだ。
今朝の夢に現れた三年前の彼女は、きっと木漏れ日なのだろう。
もう1駅として、列車に乗っていることは難しかった。
皺と埃のスーツで詰まった空間から這い出し、ホームのベンチでぼーっと何かをみつめる。
そして、反対側へと向かう列車に身を任せた僕は、もう車窓にいなかった。