第224期 #8

記されざるもの

 ざっと300万年程の昔、自然豊かなアフリカ大陸の片隅に、一匹のアウストラロピテクスがいた。猿と人類の中間に位置するこの生物には、個体を識別する「名前」はなく、故にこの雄のアウストラロピテクスを、ただ「彼」と呼ぶことにしよう。
 一見、彼は平凡なアウストラロピテクスに見えた。身長も体重も平均的で抜きん出たものがなく、適齢期にありながらまだつがいとなる雌もいない。
 しかし、彼はにある種の特別な才能があった。
 ある時、縄張りの問題で、彼は別の雄と決闘をすることになった。決闘といっても、まだ動物同士の喧嘩の域を出ない代物である。力任せに相手を殴り、引っ掻き、噛み付くだけだ。
 そんな戦いの中、彼の突き出した拳が、たまたま相手の顎に絶妙にヒットした。顎への一撃は相手の脳を大きく揺さぶり、ついには昏倒せしめるに到った。相手は驚いたことだろう。大した痛みもない一撃なのに、身体が動かなくなってしまったのだから。
 だが、相手以上に驚いていたのは、彼だった。脳震盪という理屈など理解出来ようもないのだから無理もない。
 しかし、それでも彼の脳は「思考」することが出来た。何故、相手が倒れたのか、その原因を追及しようとしたのである。己が行いの記憶を辿り、ついに、顎の一撃が原因なのではないか、という仮定に到った。
 暫くした後、彼はまた別の雄と戦う機会を得た。彼は半信半疑ながら、先日と同じように、相手の顎先を狙って拳を振るった。何の注意もしていなかった相手は、それを見事に食らい、あっという間に大地に倒れ伏した。
 彼はようやく納得した。顎を上手い具合に殴れば、相手は倒れる。理屈は解らないが、そんなものは必要なかった。ただ、その事実さえあれば充分である。
 それから彼は考えた。どうすれば、顎を上手く攻撃出来るかを。彼我の距離をコントロールする方法、油断させて懐に入り込む作戦、最も効率よく殴れる角度、それらを考え、実行した。
 それから数年の後、彼は数十頭の仲間を率いるリーダーとなっていた。「技」を手に入れた彼に勝てる雄はもう一匹もいなくなっていたのだ。皆が彼を認め、彼はその地域におけるアウストラロピテクスの王となったのである。
 しかし、彼の偉大な功績は、記憶にも記録にも残らなかった。
 彼は――「史上初の格闘者」は、アフリカの大地で、骨となり、塵となって、風に消えた。
 彼の磨き上げた「技」とともに。



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