第224期 #7

春を吸う

 追い詰められた男が葉巻に火をつけ、咥える。煙を吐き出して不敵に笑う。銃声。

 水底のように薄暗い部室でシュノーケル音が三つ漏れていた。陸は端末に映る映画をぼんやり眺める。左に座る海は電子本の頁を手繰り、右の空は長机に突っ伏している。
「陸、それ面白い?」海が問う。
「普通」
「なんか面白いことない?」
「ない」
「そういえば」空が伏したまま呟く。「B組の森と原、付き合ってるだろ」
「嘘、原さんタイプだったんだけど」と海。陸が、はいはいと適当にあしらう。
「あいつら二人で〈鼻〉外したらしい」
 一瞬の間。探るように細く息を吐く。
「どうして」
「さあ……心中とか噂流れてるな」
「ヤったのかな」
「かもな」
「空、なんか知ってんの」
「行こうぜ」
「どこに」
「屋上」

 空が先を歩き、陸と海は黙ってついていった。人気のない四階のさらに上、埃の堆積した階段を上る。突き当たりにはドア。
 どうやって手に入れたのか、空はポケットから鍵を出し、差しこんで回した。躊躇いなくドアを開く。どっと勢いよく風が吹き、潜水服に包まれたからだが押し流されそうになる。海がおどけて言う。「春一番とかいうやつ?」
 そっとドアを閉める。直後、陸は空の腕を掴んだ。
「何だよ」
「死ぬ気か」
 白い手袋に覆われた空の手が、象みたいに長いチューブ状の呼吸器〈鼻〉を外そうとしていた。まっすぐ陸を見て言う。「死なない」
「わけわかんねえよ。説明しろ」
「信じないだろ」
「信じるよ」
「じゃあ、信じろ。俺は死なない」
「理由!」
「あっ」
 空がぽかんと口を開けた。陸の背後から、倒れる音。誰が? 海が。生白い顔。剥き出しになった本物の鼻の穴から一筋、流れ出る血。
「海!」
 陸が海の〈鼻〉を被せようとする。
「待て」空が割って入る。
「殺す気かよ!」
「落ち着け。よく見ろ」
「ハハッ、すごいな」鼻の下を血まみれにしながら、海は生きていた。「二人とも早く外しなよ」

 それから空も陸も〈鼻〉を外した。ぬるく湿った空気を恐る恐る吸いこむ。黄色や緑が目のなかで明滅し、荒波に花火の咲くような轟音が耳をつんざいた。陸は鼻血を吹いたが空は平気だった。初めは俺も出たとだけ言った。
 空が祖父の部屋からくすねたという煙草を取り出し、陸と海に一本ずつ配った。火をつける。三人は盛大にむせ、ひとしきり悪態を吐いてから、並んで宙に消えていく煙を眺めた。
「空」陸が呟く。「死ぬなよ」
 空は笑った。
「死なねえよ」



Copyright © 2021 Y.田中 崖 / 編集: 短編