第224期 #9

幻想

 東屋まで来てみたが藍はいなかった。霧のような雨を受けた葉があちこちで鈍く光っている。僕は東屋に入り、ベンチに座って林内を眺めた。藍にも何度か見せた景色だった。
「みんな景色だと思い込むの」と藍は言っていた。「そこに自分も関係しているなんて、少しも思ってないみたい」
 だから彼女は教室に蛇を放ったのだ。十八匹のジムグリ。阿鼻叫喚の地獄絵図を眺めながら藍は冷たく笑った。
「どうせ自分の親が突然自殺なんかしたら、こんなふうに慌てるんでしょ?」
 耳を澄ます。散策路を挟んだ先に広がる茂みで鳥が囀っている。キビタキが低い木々の間から遊ぶように飛び上がり、弧を描いてまた茂みに消えた。喉元の黄色い残像。周囲のような高木がないから羽虫を捕まえやすいのだろう。整然と並ぶムシカリの若葉が風に触れて踊った。
 茂みの中央で、太い枯木が折れた幹を空に突き出している。開けた空間は巨木が生きていたことの証明だ。その痕跡の中で新しい木々が旺盛に伸びてゆく。分解された巨木の体を取り込みながら。
 藍の行方を他に考えたが思いつかなかった。ここへは一人でも通っていたようだ。だから自然が好きかと聞いたら、藍は怖いと答えた。
「じゃあ来なけりゃいいのに」
「声が聞こえるの。聞かなきゃ」
 ただの幻聴だろうけど、と言うのでどれだけ本気にすれば良いのかわからない。開けた空間のどこかから聞こえるらしかった。洞穴の奥の風のような、あるいは無数の唸り声のような、叫び声のような。
 耳に届くのは相変わらず鳥の声だ。茂みに巣を作るのか、ヤブサメが自己主張を始めた。虫みたいな囀りは高すぎて藍には聞こえない。藍の言う「声」も、もしかして僕が聞き取れないだけなのだろうか。猛り狂う生き物たちの声か、彷徨う亡霊の声か、両方か。
「やっぱり、幻想じゃねえの」
 口に出してみた。東屋の外の景色は遠かった。「関係しているなんて大袈裟な」
 目を閉じる。草木の興奮を代弁するようにヤブサメの声が尻上がりに響く。シーシーという音を蛇と勘違いする人もいるらしい。教室に放たれ右往左往する蛇。まだら模様のジムグリの幼蛇はやがてわらわら山へと逃げていく。赤い身体をくねらせながら茂みの中へ。低木の間を抜け、枯れ木の根本に、藍の足。
 思わずベンチから立ち上がり勢いでよろけた。
 鳥たちの声にいつの間にか微細な雨音が混じっていた。僕は東屋の柱に掴まり恐る恐る顔を上げる。
 まさか。



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