第224期 #4

井の中の蛙

先週冠水した道路に、タライみたいな水たまりができていた。
俺の通勤路は、田んぼに挟まれた田舎道だ。
のぞき込むとカエルが数匹、わずかな水草を取り合っている。
「おい」
俺は言った。
「そこに世界があるぞ」
目を上げると大きな田んぼが広がっている。
井の中の蛙・・・とつぶやいてそこを去った。



日照りが続き、半分ほどの大きさになった水たまりをまた覗いてみた。
底の方でカエルたちはじっとしていた。
俺は靴先を水たまりに入れて表面をちゃぷちゃぷ揺らしてみた。だがカエルたちはそこから動く気配はなかった。この暑さに弱っているのかもしれない。




その次の週、俺は上司から海外出向の打診を受けた。
ぼーっと帰り道を一人歩く。
海外? この小さな町から出たこともない俺が?
ちょっと傷んだ物を食べたらすぐに腹を下す俺が?
今のままでも全然不満はないじゃないか。
小さな営業所だけど仲間とは上手くやってるし事務員にちょっと気になる子もいる。
家に帰れば親の作った温かいご飯待っているし掃除も洗濯も何もしなくて良い。
それが突然知らない場所、言葉も食べ物もまるっきり違う、知ってる人も誰もいない別世界に一人?
「死ぬんじゃないか・・・?」
ふと足下を見ると、からからに乾いた元水たまりに干からびたカエルがいた。
俺は息をのむ。
底の方にこびりついた泥の中に、水草に絡まってわずかに卵があるのを見つけた。たまらなくなって周りの泥ごと水草を掬い、数歩先の田んぼへ放り投げる。
ぽちゃんと湖面がわずかに揺れて、後は遠くでカラスが鳴くだけだった。
俺は泥だらけになった手を見つめた。
井の中の蛙。
きっと俺はこのままこの町で結婚して子どもを作ってそして死ぬのだと、その人生に疑問を持ったことは一度もなかった。
だけど、その子どもはもしかしたらここを飛び出すのかもしれない。
年老いた親がぼそっと、海外に出るチャンスが一度だけあったんだとつぶやくのを聞いて、俺の知らない世界へ行くのかもしれない。
それがほんの少しだけ羨ましいと、初めて思った。
「おい・・・」
声が掠れる。
「そこに世界があるぞ」




手を拭って、俺は電話を取りだした。
上司の声を聞きながら、田んぼの向こうにある空を見上げる。
別世界などではない。
向こうの空も、きっとこの空と繋がっている。



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