第222期全作品一覧

# 題名 作者 文字数
1 しじま 霧野楢人 1000
2 姉の体重計 テックスロー 957
3 ロボット化できないもの 糸井翼 1000
4 カレーと彼女 rairai 489
5 大往生 shichuan 1000
6 カフェオレ色の kyoko 999
7 ボーイミーツガール たなかなつみ 1000
8 Num-Amidabutsu_ENTER 志菩龍彦 986
9 妖精グッバイ euReka 1000
10 僕らがいる未来 千春 579

#1

しじま

 水底めく灯りのない階段をそっと降った。裸足を乗せる踏面は冷たく、小さく軋んだ。降りた先の天井からぶら下がる電球を点け、リビングには入らず廊下の方へ曲がるとチィがいた。弱い光を鈍く反射した床板に尻をついて座る従妹はこちらを見上げ、眉を上げたお馴染みの表情で、トイレ?と訊いた。
 眠れないだけ。
 壁につけていた背中を離し、膝を抱えていた腕を解きかけるチィを僕は制止した。
 オレも座るよ。
 照れ臭そうに破顔したチィの隣に腰を下ろす。床はやはり冷たい。傍に積んである缶コーヒーを一本手に取ると、これは思いの外冷たくなかった。
 あ、おじいちゃんのなのに。
 じいちゃんのだから良いんだよ。
 夜なのに良いの?
 どうせ眠れないからな。
 火葬を終えたばかりの祖父の質量は、生暖かくまだこの家に残っている。頑固だが酒を飲むとひょうきんで、宴に集まった親戚たちの前で僕に「するとお前は童貞か」なんて言って豪快に笑うような人だった。
 散々泣いたんだ。良いだろ、少しくらい。
 プルタブを持ち上げ缶を開けた拍子に、カポっという音がした。静かだ。
 思い出した、と僕は言った。
 何を?
 子供の頃、こんなふうに二人でコーヒー飲んだよな。
 ふふん、あったあった。
 喧嘩して祖父に二人とも怒鳴られた後、頭を冷やせと缶コーヒーを渡されたのだ。あの頃は、まだ膝を伸ばしてもお釣りが来るほど廊下が広く、缶コーヒーの量は飲みきれないほど多く、二人だけの空気は誰もいない水族館みたいで胸が高鳴った。
 ほんとに覚えてんのか?
 忘れるわけないよ、とチィは得意げに言った。口調とは裏腹に、出来損ないの子供を見守る親みたいな顔で。
 昔みたいにさ、またみんなでワイワイしたいよね。
 大学一年の頃に会ったときもチィは同じことを言っていた。彼女の日常に僕はいない。少なくとも、僕よりも遥かに生活は充実していそうだったから、こんな親戚付き合いを恋しがるのは意外だった。
 イワシの群れが目の前を過ぎていく。目眩と飛蚊症だ。実は僕はカフェインに弱いのだ。そしてチィは人魚に似ている。そう思ったことが一度ある。透き通った姿は僕の知るチィではなくて、無邪気に幸せを願っていたことを、その日後悔した。
 コーヒーは全然飲めそうになかった。
 やっぱ寒いから寝るわ、じゃ。
 僕は床にそっと缶を置く。
「おやすみ。じいちゃんによろしく」
 立ち上がると冷たい空気が顔を撫でた。静かだ。


#2

姉の体重計

 うちには体重計が二つあった。一つは昔ながらのアナログ式の体重計、もうひとつは姉専用の、ガラス天板に赤いデジタル表示の体重計だ。ある日姉はどこからかその体重計を買ってきて、「姉専用」として浴室に置いた。姉は決して他の家族に体重計を触らせようとせず、「なんで体重計なんて二つもいるのよ」という母の小言を笑ってやり過ごしていた。
 当時高校生だった姉は必要のないものを突然買ってくることがあった。年甲斐もなく電池で動く猫のおもちゃを買ってきたり、「参考に」などと言ってゼクシイの特集号を買ってきたり、他にもいろいろ不要なものを買ってはすぐに飽きて、それらは物置にしまわれていた。両親は「まーたつまんないもの買ってきて」と言ったきり体重計に対して特に興味を持たなかった。

 姉が体重計を買って二ヶ月ほど経った日のことだ。姉が風呂から出たので台所の母に「お姉ちゃん出たから武彦あなた入りなさい」と言われ、しかしすぐに行くと事故につながるのは知っていたので、自分の中で五十数えてから風呂場へ向かった。
「あちゃー、また太った」
 脱衣所の扉の向こうではパジャマ姿の姉が「アナログ式の」体重計に乗っていた。
「間食しすぎでしょ。って何でそっちの体重計使わないの」
 姉はそれには答えず「うるさいわねえ」とバスタオルで髪を拭きながら脱衣所から出て行った。体重計はバネの力で勢いよくダイヤルをゼロに戻した。
 深夜に目が覚め、暗闇の中トイレへ向かうと、脱衣所の扉が開いていた。通り過ぎざま中を見ると、はだかの姉がデジタルの体重計に足を乗せようとしているところだった。とっさに見てはいけないと思いながら、私は姉の後ろ姿に釘付けだった。窓明かりに照らされた首筋、肩、背中、臀部はしなやかにつながり、肩をすべる髪の毛は光っていた。姉は手を胸の前で組み合わせ、祈るような姿勢でそっと両足を体重計に乗せ、しかし首や目線はずっと上を向いていた。計測終了後も姉は表示には一瞥もくれず、扉の脇で息を潜める私に気づかずそのまま自室へ消えた。残された私は急いで脱衣所に入り、体重計の赤い表示を目で追ったが、焦点が合う前に数字は消えてしまい、そこにさっきまで乗っていた姉の匂いも霧散した。先ほどとは違う暗闇と静寂に震え恐れる私を照らす窓枠いっぱいの満月だけがあった。


#3

ロボット化できないもの

「さて、これが当店のスタイルです。わかっていただけましたか。」
インターンの担当者が私たちに店の中を一通り案内してくれた。レジに立つ、ハンバーガーを作る、そのハンバーガーを注文した客に運ぶ、食器やトレーを洗う、その作業を担うのはすべてロボットだ。小さい頃の社会科見学で行った自動車工場みたいだと思った。
人口減少が進んでいく中、企業は様々な生き残り戦略を考えている。このファーストフード店は、店の中を全てロボットで賄う方法を選んだ。人からロボット、あるいは人工知能、AIへと置き換えを進めるのは当たり前になりつつあるが、すべてロボットの店、というのはまだ珍しい。例えば飲食店であれば、メニューのいくつかはどうしても人の手作業が必要だったり、あるいは最終確認のための人がいたり、ということが多い。まあ、人件費が高くなっている現状とファーストフード店の安い値段を維持することを考えたら、将来的には当然の流れになってくるのかもしれない。特にこのファーストフード店は値段の安さが長所の一つだから、うなずけることではある。
しかし、そうなると、このお店で私たちインターン生は何をすればよいのだろうか。
「ロボットの管理は誰がされているのですか。」
「本社の人工知能がすべて管理しています。その人工知能は幹部が最終確認するんですけどね。最後は人が見ます。」
会社によっては機械の誤作動防止や管理のために人を置いておくことがある。でも、今回のインターンの内容はそれとは違うようだ。
「あの、私たちのインターンの内容って、何をするのでしょうか。」
「うん。すでにご存じかと思いますけど、当店のメニュー表をご覧ください。」
子どもの頃から見てきた、おなじみのメニューだ。
「どうしてもロボット化できないメニューがあるんですよ。昔から当店では売りにしていたのですけど、それをロボットにさせると、どうしてもロボットの費用が高くなってしまってね。」
ハンバーガー、フライドポテト、ドリンク、サラダやアイスといったサイドメニュー…どれもロボットが扱っていたのをさっき見たような気がする。
「インターン生の皆さんには、当店の売りをしっかり理解してもらおうと思っています。」
「あの…申し訳ございません、どれを私たちは作るのでしょうか。」
「ここに書いてあるでしょう。作り方の説明は要りませんよね。」
担当者が指をさしたのはメニューの隅だった。
「スマイル0円」


#4

カレーと彼女

月末になると彼女はいつもカレーを作ってくれた。1Kの狭いキッチンで手際よく料理する彼女の後ろ姿は魅力的だったし、作ったカレーを笑顔で頬張る彼女も素敵だった。
「カレー作るの好きなら今度作りに来てよ。」
友人の結婚式の2次会で知り合った時に言った。当時は付き合ってた恋人とも別れて人肌恋しかったかもしれない。もちろん、本当に来るとは思っても見なかったが。
「月末ならいいよ。」彼女はそう言った。
「どうして月末?」初めてカレーを作ってくれた日に聞いてみた。
「私の家族はね、両親が共働きであまり家にいなかったし5人兄弟の私たちも家計を支えるためにバイトいっぱいしてたの。だから一家で食卓を囲むことはあまりなかった。でも月末だけはみんなで大好きなカレーを食べようって母が言って、それからは月末はカレーって決まってるの。」
それ以降、私と彼女は月末になると一緒にカレーを食べた。母から教わったというカレーはとても美味しかったしこの時間が私も好きだった。
ある日を境に彼女と会うことはなくなった。気が変わったのかどうかわからないけれど、今までの時間が幻のように思えた。
カレンダーを見る。今日は月末だ。


#5

大往生

矢崎太一郎は、百四歳で大往生をとげた。

 彼が自身の寿命を全うできたのは、不幸の沼地に幸運の飛び石がちょうどいい塩梅に並んでおり、踏み外すことなく、最後まで飛び続けることができたためで、それは類まれな才能だった。だからこそ、彼は人類最後の一人となれたのだ。

 太一郎の人生には、常に孤独が付きまとっていた。幼くして両親を亡くし、老いた祖母に引き取られた。学生時代に知り合った妻とは子どもには恵まれなかったが仲睦まじく、その妻を病で亡くしたときは、ひどく落ち込んだ。見かねた上司からの勧めにより、衛星軌道上にある宇宙ステーション「未来」の長期滞在員となった。

 滞在3年、その日はやってきた。常時15名で運営していた「未来」だが、交代のタイミングが重なり、太一郎が一人残っていた。補給物資とともに追加の人員がやってくる予定だった。補給船は定刻にやってきたのだが、人は乗っていなかった。ちょうどその三日前、地上との連絡が、突然、途絶えていた。

 このときの太一郎の焦りと絶望はいかほどだったか、それを推し量るすべはない。宇宙空間でなければ、自らの足で外に出て状況を確認できた。ただ、ここは孤独を圧縮した船の中だった。太一郎を救ったのは、一つの記録媒体だった。同僚が気をきかせて補給船のなかに入れてくれていた、あるラジオ局の開局百周年記念の品で、過去の番組をすべて詰め込んだものだった。不安に溺れ、自死に揺らぎかけた太一郎に、ラジオの声は、あたたかく響いた。宇宙船に生命の温もりが広がった。ひとしきり涙を流した太一郎は、冷静になり、一人で生きるに十分な備品があることを確認した。

 矢崎太一郎は生きるためのルールを定めた。彼の生まれた日からラジオを聴くこと。それは人生を聴きなおすことだった。記録媒体にはCMが入っていないため、正確には一日分は24時間でない。しかし、地球を46分で一周する船に乗っている人間が気にすることではなかった。気に入ったパーソナリティのときは夜更かしもした。大きな震災や事件があった日は、記憶が鮮やかに蘇った。

 妻の命日、太一郎は地球を眺めて一日を過ごした。久しぶりに涙を流し、それが彼の最後の涙だった。地球は変わらず青かった。

 矢崎太一郎の亡くなった日が、録音されたラジオの最後の一日だったことは、あまりにもできすぎだろうか。最期まで孤独であった太一郎の死に顔は、それでも穏やかであった。


#6

カフェオレ色の

可愛いな、と思った。
髪を甘いカフェオレみたいな色にして、キラキラした爪は少し重そうで、スカートは短め、靴は一番気を遣う。今は底の分厚いスニーカーが熱いらしい。そうやって私は今とても不機嫌です、と周りに主張せずにいられないところが可愛いと思う。毛を逆立てた猫みたいだ。
わかりやすいものは可愛い。

そう思って見ていると目が合って、私はにこりと微笑んだ。
歯は見せない。その後ろには秘密があるから。

私は別に不満なんかなかった。
茶道部は楽しいし、黒髪も校則を守るのも特に理由なんかない。
私の一番大事なものは音楽だった。
なんとなく心を上滑りする親や先生の言葉と違って、彼らの言葉は私の中にまっすぐ届いた。イヤホンの邪魔になるからピアスはつけない。ライブで隣の人を傷つけるから爪も伸ばさない。それが結果的に品行方正な女子高生になっていただけだ。
でも私の好きなメタルバンドのギタリストは舌にピアスをつけていた。
とても綺麗な銀色は赤い舌によく映えて、私は一瞬で虜になった。

自室にいるときやお風呂に入っているとき、学校へ行く前に姿見で確認するとき、ちらりと舌を出すと心が沸き立った。そのためだけにつけたものだけど、初めて知ったときの母親の嘆きは忘れられない。
告白されて付き合った男の子には騙されたとさえ言われた。
黒髪も規則通りの制服も、茶道もメタルもこのピアスも間違いなく私だ。
けれど、そのとき私は知った。
期待通りでなかったり、わかりにくいものは可愛くないのだ。


だけどこないだ、毛を逆立てた猫の子に見せてしまった。
だって似合ってたカフェオレ色の髪を黒くして、カラコンを外した黒い目で、私みたいになりたいと言うから。
このピアスを知らないくせにそんなことを言うから。
八つ当たりだったのかもしれない。
舌を見せると彼女は怯んだ。
だけど、なぜかその後お茶をした。引き止めてきた彼女も自分で自分に驚いたような顔をしていたけど、それから彼女は学校で派手な化粧やピアスをしなくなった。
もう周りに合わせるのはやめたと彼女は言ったけどキラキラした爪はそのままだった。自分が見えるところはアガルでしょ、顔や耳は鏡見ないとわかんないじゃん、そう言ってくしゃりと笑う彼女はもう毛は逆立てていなかったし、私も口元を隠さなかった。

私ね、ネイリストになりたいんだーと言う彼女に、私も音響の学校行きたいんだよねなどと返しながら今日も二人でマックに行った。


#7

ボーイミーツガール

 ある春の日、ぼくは彼女と出会う。新年度に入り、新生活に胸を躍らせる季節。学校へ向かう坂道の途中で、彼女はぼくと出会い、恋に落ちる。
 彼女はぼくと同じ授業をとり、同じ部に入る。学校の廊下で、通学の途中で、幾度となく彼女と出会う。彼女はそのたびに偶然だと言い張るが、ぼくの生活時間を調べあげていることはわかっている。彼女は努力してぼくを獲得し、恋の勝者となった。
 そして、ぼくはすぐさま、彼女と別れた。
 彼女に会わない数日を使い、自分の外見を変える。少し伸ばしていた髪を短く切り、シャツの袖を短くして腕の筋肉を見せ、持ち慣れていたショルダーバッグを手放してデイパックを背負い、クロスバイクに乗る。
 出会いは印象的に。例えば、秋学期初めの朝一番の講義直前の晴天の下。日傘を差して歩く彼女を自転車で追い越し、彼女から見える駐輪場に自転車を置き、すれ違う際に彼女が落とすハンカチ(必ず落とす)を拾い、声をかけて手渡す。笑顔で。爽やかに。白い歯を見せて。
 やっと手に入れた恋を失い気落ちしている彼女は、次の恋を探している。だから、ぼくはただ餌になる。以前の男に似た風貌で、印象が異なる人物。
 かれなら、と彼女は思う。必ず、思う。なぜなら。
 それが彼女の生きがいだから。慕わしい相手に恋に落ち、恋をかなえるために全力で努力し、恋が成就するまでの感情の昂ぶりをきめ細やかに愛でること。
 相手が誰でも、胸の高鳴りは彼女自身のものだ。彼女は自身の行動を通してその気持ちをただ楽しめばいい。
 でも、ぼくは彼女でないと駄目だ。恋多き彼女。恋が成就した途端に情が冷めてしまう彼女。
 だから、ぼくはまた彼女と出会う。幾度も。手を替え品を替え。季節を違え場所を違え。ぼく自身の印象も変容させて。
 彼女は毎回ぼくに恋に落ちる。毎回全力でアプローチしてくれる。恋が成就する寸前のときめきと戸惑いをすべて伝えてくれる。
 彼女との恋は成就すれば終わりだ。ぼくは大急ぎで別れの場を用意する。理由はなんでもいい。他に好きな人ができた。仕事が忙しくなった。実は許嫁がいる。海外へ移住する。
 涙にくれる彼女に、ぼくは背を向ける。そして次の出会いを大急ぎで練る。気づかれないように。大げさにならないように。でも印象的に。
 少しずつ年齢を重ねながら、彼女は幾度もぼくと恋に落ちる。
 今日もぼくは初めて彼女に出会う。その瞬間にぼくは彼女と恋に落ちる。


#8

Num-Amidabutsu_ENTER

 私の目の前に坊主がいる。
 坊主はお経を唱えており、木魚の小気味の良い音もしていた。
 坊主の後ろには少数の参列者が座っている。
 昔の知り合い達だ。もう何十年も会っていないが、皆相応に老けている。加齢を考慮するとこんな顔になるらしい。
 私の人生は、万事控え目を常としてきた。積極的より消極的。そうすれば面倒事に巻き込まれることも少ない。
 そして、忠実にそれを実行した結果、私には妻も子もいなかった。
 振り向くと、遺影と白木の棺桶があり、そこに私の亡骸が眠っていた。
 特に遺影は、人生最後の写真なのだから、納得がいくまで何度も撮り直した。係の人には少し申し訳ないことをしたと思っている。
 葬儀は粛々と進んでいく。読経が終わり、ご焼香となる。
 やがて全てが終わり、出棺となった。付き添ってくれるのは、私の一番の友人だった男と、父に母、兄や姉である。
 皆、とうに死んでしまった人々だ。だが、どうせなら彼等に私を見送って欲しかった。本来なら有り得ない光景なのだが、つい、涙ぐみそうになってしまった。
 もう充分だった。これで充分だった。
「もう結構です。ありがとうございます」
 担当者にそう告げると、急に目の前が真っ暗になった。頭につけていた機械が丁寧に外されると、担当者の青年が私を見ていた。
「如何でしたでしょうか?」
「これでお願いします」
「承知しました。では、中村様がお亡くなりになり次第、私共に通知が来ますので、こちらのプログラムをコンピュータ内で起動させて頂きます」
 担当者は安堵した様子で、契約書の準備などを始めた。
 患っている病気のことを考えても、あと一、二年で私は死ぬだろう。だが、最早天涯孤独となった私には葬儀をあげてくれる者もいない。だから、このサービスを利用することにしたのだ。
 私の考えた理想の葬式。データの参列者。プログラムに過ぎないと言えばそれまでだが、本物の葬式も、死んだ人間自身には確認のしようがないのだから、架空も本物も大して変わりがない。
 私は自分の人生に後悔はしていない。ただ、葬式もないのでは流石に寂しい。そう思っただけだ。
 人間そんなものである。だから、こんな商売が成り立つのだ。
 電子の世界で行われる葬式。御仏の無辺の慈悲は、プログラムの儀式でさえも、きっと私を成仏させてくれるだろう。
 南無阿弥陀仏。
 Num-Amidabutsu_ENTER


#9

妖精グッバイ

 デスクトップパソコンの動作が妙に重くなったなと思って本体を開けてみたら、中に妖精が棲みついていた。
 妖精は、パソコンの内部に小さなモニター画面を接続し、ネットでアニメを観ているのだという。
「つまり君がアニメを観ると、一台のパソコンに二台分の仕事をさせてしまうわけだ」
「それはすごいね」
「つまりこのパソコンは私のものなのに、君がパソコンの働きを横取りしているから、私がとても迷惑しているということ」
「なんだか、わくわくするね」
 いったいどうしたものかと妖精のことを調べてみたら、彼らには善悪の観念がないことが分かった。それに、気に入ったものは絶対に手放さない性格らしい。
 ようするに、妖精には話が通じないということだ。

 でも、何とか追い出す方法はないかとネットでさらに調べていたら、妖精駆除会社の広告を見つけた。
「しつこい妖精にお困りの皆さまに朗報! 魔法で一発解決できる新サービス『妖精グッバイ』のお得情報!!」
 ものすごく怪しいのだけど、効果があった場合にだけ代金を貰うという料金システムだったので、とりあえず申込んでみた。

 数日後、指定した時間ピッタリに部屋の呼び鈴が鳴った。
 ドアを開けると、魔法の杖らしきものを持ったトンガリ帽子の少女が立っており、無言でぺこりとお辞儀をした。
 私は彼女を部屋に上げ、問題のパソコンを見てもらった。
 妖精は、パソコンの中で昼寝をしている。
「さっそくだけど、駆除を始めるわね」と彼女は言うと、魔法の杖を妖精に向けながら呪文を唱えた。
 妖精は何かに気づいて急に起き上がったが、みるみる顔が紫色になって、悲鳴を上げ始めた。
「ちょ、ちょっと待って下さい!」と私は言って、妖精と杖の間に手を差し込んだ。「こんなやり方だとは、ぜんぜん想像していなかったもので」
「一時的に妖精を弱らせるだけだから、心配はいらないし、そのあとは森へ帰すつもりなのだけど……」

 結局、私は、妖精の駆除を途中でキャンセルしてしまった。
 こちらの都合で断ったのだから代金は支払うつもりだったが、少女は受け取れないと言った。しかし最終的には、半額だけ支払うことでお互いに納得し、彼女は再びお辞儀をして帰っていった。
 妖精は一時間もすると元気になって、いつものようにアニメを観始めた。
「つまり私は、君を追い出せなかったわけだが、自分から森へ帰るつもりはないのかな?」
「帰るところがあるのは、幸せだね」


#10

僕らがいる未来

一本の缶コーヒーを挟んで、僕らは川縁の堤防に座っていた。手が届きそうで届かない距離。僕らはいつもこの距離だ。
上京を決めた彼はいつもどおり何も変わることなく僕の隣で笑っていた。学校の先生がどうとか、クラスの女子がどうとか。尽きることのないいつもの会話に、このまま永遠の時が続くんじゃないかと錯覚する程だった。だが、僕らの別れは着実にそこまで来ていた。
「俺さ、居酒屋のアルバイトやってみたいんだよね。」
「いいじゃん。」
「バイト先の女の子と付き合ったりしちゃってさー。」
「そっちかよ!」
目の前に揺れる水面。光が乱反射して時折眩しく僕らを射す。茜空に吸い込まれた笑い声にふと寂しさが込み上げてきた。
「お前さ、たまにはこっちにも帰ってこいよな。」
「わかってるよ。帰った時は遊ぼうぜ。」
「本当かよ。」
「本当本当。あー!寂しがってる!」
「うるせぇな。」
「帰ってくるって。」
「にやにやすんな。」
これから先、変わっていく世界が彼にとって優しいものであればいい。
彼は一体何をどう選んでいくのだろうか。些細な選択を繰り返して僕らは今ここにいる。
その先の彼に「今」みたいな幸せな未来が待っていればいいと僕は願った。
「どうした?」
「どうもしてないよ。」
背中の向こうで信号待ちの車が発車する。止まっていたはずの時間が一気に動き出す。
遠ざかるエンジン音はいつまでも僕の耳の奥に残っていた。


編集: 短編