第221期全作品一覧

# 題名 作者 文字数
1 走れ、ケンジとなっちゃん なこのたいばん 450
2 彼女いない同盟の君と 糸井翼 1000
3 むぎちょこ F六 655
4 企業天使 テックスロー 1000
5 世にしたがへば、身くるし。 shichuan 981
6 僕とりんごの暮らし 千春 999
7 ナイショだよ? kyoko 1000
8 守る勢力と、殺す勢力 euReka 1000
9 SUNRISE BRAVE(歌:日輪ルル) 志菩龍彦 1000
10 名告り たなかなつみ 999

#1

走れ、ケンジとなっちゃん

ケンジがコンビニ袋をぶら下げて帰ってきた時にはなっちゃんはもう手術室に入っていた。


「あたし最期にアイスが食べたいなぁ」

自分の良心を人質にとられたケンジは病院から1番近くのコンビニに走った。中学3年間リレーの選手を勤め上げたケンジにかかればものの1分もかからなかった。

アイスのケースを開けようとしたその時、ケンジの手がピタリと止まった。
「最期のアイス、自分なら何味にする?」
額からは脂汗が流れている。


担架で王様のように運ばれてきたなっちゃんはバニラとチョコがぐずぐずになった袋と同じようにぐずぐずになったケンジの顔を見てゲラゲラ笑った。



「あん時のあんた最高だったわ。」

ソファでテレビを見ているうしろでなっちゃんがあの日と同じようにゲラゲラ笑っている。

風呂から出てきた娘が思い出したように声を上げる。

「そうだパパ、冷蔵庫にチョコレート入ってるよ。」

娘の一言を聞いたなっちゃんはカレンダーをチラリと見ると夜のコンビニに走った。


「パパがウィスキー飲むの珍しいね。」

ナイターを見ながらグラスをゆっくりと傾ける。


#2

彼女いない同盟の君と

2/14は年に一度の彼女いない同盟の会合の日だ。同盟と言っても二人だけだが。僕と海。海は幼なじみで腐れ縁、結局高校三年まで同じ学校。
「この日に男二人とか悲しすぎだわ…」僕が言うと、海が「いや、逆。同盟の方が尊いからな」とか言って、二人で笑って、残念な気持ちになったのが去年。そして、高校最後も、当然僕は女子からチョコはもらえなかった。いや、別に気にしていない。毎年会合には安いチョコを男二人で交換してきたからだ。今年もそうなるだろう。母に一度チョコを見られて「女の子?」と言われたことがあった。実に虚しい。
会合の日、放課後。会合は海の家の近くのカフェだ。待ち合わせ時間の前に着いてしまったから、先にお茶してる、とラインして、ホットの紅茶をいただく。周りを見るとカップルばかり…見なきゃよかった。
ラインの返信がようやく来た。気がつけば待ち合わせ時間を過ぎている。海からのラインには、大事件が起きた、とあった。
「遅え」僕が言うと、興奮した感じで海はやってきた。
「悪いな」ニヤつく海にいらだつ。だが、海がテーブルの上に置いたおしゃれな箱。きれいにラッピングされたこれを見た瞬間、大事件の意味がわかった。
海はついに、人生初(僕が知る限り)の女子からのチョコをゲットしたのだ。それも、おそらく義理ではなさそうだ。
それから海は人生初のその体験を興奮冷めやらぬ感じで話した。僕は驚きつつも、友達の幸せを喜んだ。
「いやあ、ついにね。お前には悪いけど」
「気にするな」
「同盟は名前変更しようぜ」
「いや、お前すぐこっちに戻ってくるよ」
「なんだと」
海は笑いながら怒った。僕といるときには見たことのない本当に幸せそうな顔。
海は余韻を楽しむ、とか言って、さっさと家に帰った。

彼女を作ることについて海に先を越されたこと、悔しくはなくはない。妬ましくない訳じゃない。なんであいつが?とも思うよ。でも、今の気持ちのメインはそれじゃないような気がする。
僕も家に着いた。かばんの中から海に渡そうと思っていたチョコ。今日はさすがに渡せない。コンビニで買ったやつで安っちい、ラッピングなんてないけれど。
なんだろう、この気持ち。僕にとって海はなんだったんだろう。友達に彼女ができても、男同士の友情は何も変わらないはずなんだけど。
渡せなかったチョコは自分でもう食べてしまおう。甘いのが苦手な海でも食べやすいように選んだんだ。
ああ、ビターチョコだ。


#3

むぎちょこ

私は麦チョコを食べようとしてえいやと口に放り込む。しかしどうして不思議なことに麦チョコは口に入る前に消えてしまう。味もしなけりゃ下にあたる感触すらない。いやいやそんなこと起こるわけがない。たまらずもう一粒。またもう一粒。もう一声の一粒。何度も何度も繰り返す。しかしそのすべての場合において麦チョコは消えてしまう。
いやはやおかしなことだ。いったいどうなっているのだ。
私は頭にきて麦チョコの袋をガッと掴み口元に近づけひっくり返す。大量のむぎちょこが下方向に向かってなだれ込んでいくのが見える。その先は大きく開かれた今か今かと待っている口の穴。しめた。これなら確実に麦チョコをお頬張れるはずだ。しかし私の期待は全く持って外れた。いやむしろ予想通りですらあったかもしれない。やはり麦チョコの味も感触もせず、変わらずあんぐり口を開けた自分がいるだけだった。私は目の前の奇怪な光景に渋々納得のいく理論を付けた。そうだ。きっとこれは消える麦チョコなのだ。まったく物が完全に消えるなど到底信じられないが、起きてしまったのだからしょうがない。
そうだ。前向きにとらえよう。これを一つ、どこかの科学者だか研究者に見せてやったら奴らは腰を抜けて驚くに違いない。そして、これを渡すのと引き換えに、金でもいくらかせしめてやろう。ふふ。完璧な計画に思わず笑みがこぼれる。
さ、それじゃあ、金に交換する前にしっかり保管しといてやらないとな。私はそう言って麦チョコの袋をのぞき込む。
そこにあったのは麦チョコも何も入っていない空っぽの袋のみだった。


#4

企業天使

「神はいつでもあなたのことを見守ってくださいます」
 公園のベンチで鳩に餌をやっているといつの間にか横に座っていた男が声を掛けてきた。
「おいでなさい、私たちの教会へ」
 俺はポケットから一枚名刺を抜き取り両手で差し出す。男は名刺を受け取り、印字された会社名を見て、顔色を変えた。
「あなたは……サラ」
 男が言い終わる前に俺は言葉を継ぐ。
「サラ金は、だいぶ昔の言い方ですね。手前どもでは、お客様を真理の高みに導くお手伝いという意味で、翔飛者金融を名乗っていますが、なかなか定着しませんね」
「……」
「まあ、名前などはどうでもよいのです。それより今の、神や、教会のお話、非常に興味深いのですが、続きをお聞かせいただけますでしょうか。融資を検討させていただくことができるかも知れません」
 ためらいがちに、しかし強い言葉で、男は自身の属する教団の教理を話しだす。俺は手元の端末を操り、時折質問をはさみながら、項目ごとに点数化し、それに応じた融資可能額を提示する。
「お客様の信仰されている宗教ですが、大変尊く、そして希少価値も申し分ないです。よくぞ今まで信仰を守り抜いてこられました。早速お振り込みをいたしますが、口座番号をいただけますでしょうか」
 男は自分の口座番号をしゃべりかけて口をつぐむ。俺はたたみかける。
「これは、神様や、お仲間を裏切るといった行為ではありません。あなたが今語られた教義は、あなたの血や肉となった、いわばあなた自身です。その姿に私どもは融資をさせていただく訳です。あなたの今のためらいは、むしろ逆にその信仰の価値を高めるものなのです」
 言いながら俺は、先ほどの金額に5%積み増して見せる。今度は何の迷いもなく男は頷く。
「ありがとうございます。ご存じでしょうが、手前どもの融資には返済義務はございません。ほんの『お気持ち』だけで結構でございます。ところで、契約の成立したお客様には一部の融資を現金で行うこともできますが、いかがいたしましょう」
 無言で手を差し出す男に札束を握らせる。そこに描かれた肖像と男の目とが合う。

 男と別れ、俺は融資実績を社に報告する。俺のを含め、データ化された古今あらゆる宗教の分析結果が、共有の「真理」ファイルに更新される。日々軽くなるファイルサイズを見ながら、世界はまだまだ効率化できるという確信とともに、俺はこの会社で働くことに何物にも代えがたい喜びを感じるのだ。


#5

世にしたがへば、身くるし。

 遊び疲れて眠った娘を抱えて電車に乗ると、異臭が鼻をついた。何度か嗅いだことのある、小便をもらしたようなすえた臭い。使い古して黄ばんだ紙袋が四つ、衣類などをいれているのかどれも膨れている。ボサボサの白髪頭をしたホームレスの老婆だった。電車は満員ではないが、座席は埋まり立ち客が多く、老婆もその一人だった。つり革の下で、ガニ股で足を踏ん張り、バランスを取っている。異臭を放つ老婆は、自分の眼には、車内の異物に見えるのだが、周りの乗客は誰一人関心を寄せない。臭いの発信源に一瞥すらない。駅にとまり、乗客が入れ替わっても同じ。臭いに気づき一瞥したのは、四人組の若い高校生くらいの男の子が二人、同時に振り返り、眼で合図だけしたが、声には出さなかった。あとは、近い席にすわっていた中年の男が一人、ちらりと目を向けたのは分かった。それだけ。誰一人顔をしかめることもなく、そばに座る若者が老婆に席を譲ることもなかった。老婆は紙袋を持ち替えた拍子に、座席の背にもたれ、こちらを向いた。

 代々木公園で炊き出しがあるらしい。見舞金が出るとか出ないとか。前歯が一本しか残っていないジジイに身体をまさぐらせてやった報酬のタバコを吸いながら聞いた話だ。見舞金が出るなら、少し贅沢ができる。今日の飯。盗まれないよう持ってきた生活用品が、指に食いこんで重い。ふと父親に抱かれた幼い女の子が目に映る。幼子の電車の暖房に赤くした頬は、細やかな白い肌に映えて、健やかだった。父の肩に顔を埋め、切り揃えられたオカッパが光沢をたたえている。ほんの一瞬だった。その日暮しで、過去を思い返すこともなくなった、ホームレスとなった原因すら覚えていない老婆は、遠い昔、大きい父の背に嗅いだ磯の香りを思い出した。しかし、すぐに瞳の焦点は幼子から外れ、ぼやけた。香りは霧散した。郷愁は、炊き出しと見舞金に間に合わないのではいかという焦りに上書きされた。老婆の幼子への無関心は、正しく他の乗客と同じであった。

 娘がぐずりはじめたため、父親は自宅最寄りから一つ手前の駅で降りた。誰かから非難されたわけでもないのだが、母親不在の不安と静かな車両に響く娘の泣き声にいたたまれなくなったのだ。プラットホームで娘をあやしながら、父は電車では潜めていたため息を小さくついた。



世にしたがへば、身くるし。したがはねば、狂せるに似たり。


#6

僕とりんごの暮らし

そういえば君はりんごが嫌いだ。

銀色の小さなシンクには茶碗やコップが積み上げられていて、押し合いへし合いしている。いくら星が綺麗な夜もこのシンクが目に入ればあっという間に枯れ果てた気分になってしまうだろう。ペットボトルでパンパンになったゴミ袋とテーブルに並べられた空き缶はいつ頃からあるのかわからない。この光景だからこそあり得るお似合いのオブジェ(よーく言えば)と化していた。部屋は床に散らばった服やゴミで和室なのか洋室なのか判別できない。

実家から届けられたのは一箱のりんごだった。「りんごを送る」とだけ伝える電話がかかってきたのは5日前。まさか一人暮らしの男子学生の元にまるまる一箱送られてくるとは思うはずもない、お歳暮じゃないんだから。まあでも百歩譲ってよくよく考えてみると、うちの母親がやりそうなことではある。段ボールは2層になっており、うちのアパートの住人全員に配り歩ける量のりんごが敷き詰められていた。

皮をむいて食べるというような高等技術は持ち合わせていないので、運良くワックスがかけられていないその皮ごとかぶりつくことにした。
こんな部屋の中でもほのかに香るりんごの香りが宙を舞うと、酸っぱくてジューシーな甘みが僕を癒やした。うまいものは誰かと共有したくなる。誰かいないかと頭に思い浮かんだのはあの子だった。

あの子はりんごが嫌いだと言った。トマトでもピーマンでもなくりんごを嫌いだという人を僕は初めて見たので、そのことは鮮明に思い出すことができる。りんごが嫌いなあの子を思い出してしまったが、少なくとも僕の方はあの子を強烈に覚えているということだ。つまりそういうこと。

教室に行けば、きっと話す機会ぐらいあるだろうが、僕はイケメンにはほど遠いし、勉強だって中の下、なんてったって汚部屋の住人だ。そんな不潔な人間が大嫌いなりんごを抱えて現れたら、もはや罰ゲームでしかないだろう。
賢明な人は僕に「自信を持て」と言うかもしれないが、この自分自身に貼ったレッテルはアロンアルファを引き剥がすよりも困難だ。もし、上手くいったとしてもこんな部屋に女の子を呼ぼうだなんて、掃きだめに鶴とは慣用句的にも視覚的にもその通りでよく言ったものだと思う。いやらしいことをできそうなスペースもない。

りんごを一個食べ終えると僕は正気に戻った。
思わず漏れたため息に苦笑いして、「部屋でも片づけるか…」とゴミの隙間で呟いた。


#7

ナイショだよ?

 彼女は軽やかに茶釜の前に座った。

 着物を整え背筋を伸ばし、指をつく。客側の私達も小さくお辞儀をした。ぴんと張り詰めた空気の中、しゅんしゅんと蒸気の音が心地よい。澄んだ水音がして茶筅が踊り、ふんわりとお茶ができあがる。茶碗を包む彼女の手はなめらかに白く、緊張で頬はうっすらと上気していた。
 呼吸をすると鼻が冷たくなるほど、このお茶室は寒い。だけど初釜のこの日はきっと着物に身を包んだとっておきの彼女が見れると思ったから。
 白地に赤い花柄の振袖を着た彼女は、教室での制服姿よりもずっと本当の彼女のような気がした。


 いかに校則のぎりぎりを狙うかに気を揉んでいる私達の中で、彼女ただひとり違う空気を纏っていた。一度も色を入れたことなどないであろう黒髪は顎のラインで涼やかに揺れていて、マニキュアなどきっと知らない爪はいつもぴかぴかと光っていた。
 ある日プリントを揃える手指に見とれていると目が合って、思わず仕草が綺麗だね、と言ってしまった。茶道部だからかな、と彼女は照れた。口元を隠して微笑む様子は可愛らしく、でもまさか自分が茶道部に入るなんて思いもしなかった。当時の友人たちは驚きこそすれ誰も付き合ってくれず、それから私は彼女と話をするようになった。


 一大イベントである初釜では着物で参加するのが習わしだ。化粧や髪型をむりやり和風にした私を先生は褒めてくれたが、耳にあるたくさんのピアス穴だけは少し残念そうにされてしまった。
 彼女の黒髪は今日は鈍い銀糸をあしらった髪飾りで留められていた。白い耳たぶにはもちろんピアス穴なんてひとつもない。
 お手前を終えて挨拶をする彼女のうつむいた頬に長いまつげが影を落とす。今日のこのために存在していたのかと思うほど、彼女は完璧だった。






「ねえ、どうしてそんなふうにできるの?」
 帰り道、ふいに私は言った。
 彼女は私をじっと見て、いつものように微笑んだ。
「ナイショだよ?」
 そう言ってぺろりと出した舌には、ピアスが光っていた。
 かちり、と歯に当たって音を立てる。
 鈍い銀色のそれは髪飾りとぴったり合っていて、彼女の清廉な雰囲気を少しも損なっていなかった。だけどそこに居る彼女はもうふんわりとした実態のないものではなくて、その貫かれて濡れた舌と何もかもが繋がっているのだと私は知ったのだった。


「じゃあ、また学校でね」
 そう言って踵を返した彼女の腕を、気づけば私は掴んでいた。


#8

守る勢力と、殺す勢力

 世の中には、私を殺そうとする勢力が存在する。
 それでも私が生きていられるのは、殺す勢力より、私を守る勢力の方が優勢だからだ。
「あなたは何も気にしなくて大丈夫」と、守る勢力の人は笑顔で私に言う。「あなたはただ、普通の学校生活を楽しめばいいのよ」
 同じクラスの中にも、私を殺す勢力の人が何人かいるみたいだが、私はそれが誰なのか知らない。しかし、急に転校などでクラスから人がいなくなることがあるので、もしかしたら、勢力争いで誰かが犠牲になってしまったのでは……、と考えてしまうことがある。
 きっと、何も知らないほうが幸せなのかもしれないが、何も知らない自分というのは実に間抜けだ。

 私は、二つの勢力について色々考えてみたあと、自分の十七歳の誕生会を開くことに決めた。小学生みたいで恥ずかしかったが、誕生日だけでも二つの勢力が休戦して、一緒にお菓子を食べたりしながら、お互いの気持ちを話すことはできないものかと思ったからだ。
 守る勢力の人にそのことを相談すると、うーんと唸りながら腕を組んだ。
「相手側にも一応打診してみるけど、どうなんだろう? 前例がないことだからね」

 そんなわけで、誕生会のことはあまり期待していなかったのだが、意外なことに、相談してから三日後にオーケーが出た。
「セキュリティの問題もあるから、会の準備は全て我々に任せておいて」と、守る勢力の人は言った。「あなたは、誕生日を楽しみにしていてね」

 誕生日の当日、私は学校の空き教室に連れて行かれた。
 すでに生徒たちは、二つの勢力が向かい合わせに配置された席にそれぞれ座っており、私はその正面の真ん中の席に座らされた。
 殺す勢力の席を見ると、一緒に昼ごはんを食べたり、掃除のときのゴミ捨てにいったりしたクラスメイトもいた。
「まずは、誕生日おめでとうございます」と、殺す勢力の人が言った。「今日は誰もあなたを殺しませんし、我々も、あなたを殺さなくていいのでホッとしています」
 生徒たちから、軽い笑い声が漏れた。
「でも実は、我々には最初から、あなたを殺す気などありません」と、彼は続けた。「なぜなら、放っておいてもあなたはいつか死ぬからであり、このゲームは初めから我々の勝ちでなのです」
 私はそのとき、とても間抜けな顔をしていたと思う。
「でも、勝ちが決まったゲームなんて退屈なので、殺す勢力は誕生会が開かれたことを機会に、本日をもって解体します」


#9

SUNRISE BRAVE(歌:日輪ルル)

〈諦めないで。貴方の勇気が皆を救うの。きっと貴方が皆を救うの〉

 少女の歌声が聞こえる。日本人なら誰でも知っている歌だ。
 彼女の名前は日輪ルル。日本で一番有名なアイドルである。テレビやネットで彼女の姿を見ない日はない。
 ただし、彼女は普通のアイドルではない。人工的に作られ架空の存在――バーチャルアイドルなのだ。
 ルルが世間に登場した時は、何処にでもいるその他大勢の一人に過ぎなかった。それがあっという間に有名になり、その曲やダンスはあらゆるメディアで流されるようになった。
 ルルは老若男女に愛された。不思議なことに、アイドルに興味を持ちそうにない世代にまで。
 僕も彼女の大ファンで、その歌声に聞き惚れ、真剣に応援していた。
 日本武道館で行われたライブを、今でも鮮明に思い出せる。ステージ上の3D映像の彼女に、僕は必死にペンライトを振ったものだった。
 そんな人気絶頂だったルルが、ある時からやや過激な発言をするようになった。政治や思想に関わることだったが、炎上はしなかった。一瞬で火消しが行われたからだ。
 いつしか僕達の間には、「ルルの言うことを批判するのはダサい」とでもいうような雰囲気が出来ていた。下手に彼女を批判すれば、袋叩きにあってしまう恐さもあった。
 僕達は、ルルの言葉を何の抵抗もなく受け入れるようになっていた。その言葉の意味など深く考えもせずに。
 政府は、政策のアピール等に積極的にルルを利用した。「その為にルルは作られた」、「特殊な波長の声を使っている」と語る陰謀論者達もいたが、彼等のアカウントは一瞬で永久凍結された。だから真実は、いまだに謎のままである。
 消費税の引上げ、リスクの高い経済協定の締結、挙げ句の果てには隣国との局地的紛争まで、可愛らしい少女の声で、政府は国民に納得させようとした。
 考えてみれば、酷く馬鹿げた話である。
 だが、それを真に受ける程に国民は馬鹿だったのかもしれない。
 かく言う僕も、今は外国の戦場の真っ只中にいる。ペンライトを自動小銃に持ち替えて。
 隠れている壁に、敵兵の銃弾が当たる音と振動が、僕の恐怖心をかきたてる。部隊はバラバラになり、僕は孤立無援となっていた。
 ルルの歌が聞こえる。この銃声、爆音の中で聞こえる訳がない。だから、これはきっと幻聴なのだ。
 でも、嗚呼、ルルの歌が聞こえる。

〈諦めないで。貴方の勇気が皆を救うの。きっと貴方が皆を救うの〉


#10

名告り

 そもそも自分には名がなかった。呼ばれるときは「おい」や「ちょっと」で、手招きだけのこともあった。特に不便を感じたことはなかったし、他の人たちから区別される必要があるなどと考えたこともなかった。
 名が必要になったのは、ずっと暮らしていた場所が閉鎖されることになり、外界とわたしたちが呼んでいたところへ移り住む必要が生じたからだ。何が書かれているのか皆目わからない「書類」と呼ばれる紙の束を渡され、名を記せと言われる。わたしはその意味することがわからないまま困り果てた挙げ句、自身の知る数少ない文字らしきものに音をのせて自分の名というものをひねり出した。
 いったん名というものが生じると、愛着もわくし、それを自身と同一のものだと思い始める。わたしは人の見えない建物の陰にしゃがみ、口のなかで何度も自身の名を繰り返し、嬉しさに頬を火照らせた。
 違う名で呼ばれ始めたのは、それからしばらくのちのこと。きっかけになった当初は単なる言い間違いだということはわかっていた。わざわざ指摘して波風を立てねばならないものだとは思わなかったし、そもそも「書類」にきちんと記した自身の名はその時点から正式なものであり、周囲の皆がそれと認めてくれたものなのだから、その一瞬の判断ミスで、それから自身の呼び名が変わるなどとは、思いもよらないことだった。
 外界では名が重要だと、それは最初に口を酸っぱくして教えられたこと。わたしもそのことはもうわかっているつもりだった。だからわたしは間違えない。大事にする。それでいいと思っていた。
 違った。
 名には付随する意味がある。それは、わたしが考えているような、単なる文字と音との組み合わせではない。ほんの少しのアクセントの違いで、ほんの少しの抑揚の違いで、その名はクラスを明らかにし、属性を表明する。住むべき地域を示し、上下関係を決定する。ましてや、たった一音のことでも、発音が異なる呼び名になってしまっては。
 知らぬ間に自分の名は嘲りになり、拒絶の意味になった。その名のもとで虐げられることは当然のこととなり、わたし自身の言葉は遮られ、他者によってわたしの性格も技能も決定された。
 わたしの名はそれではありません。何度訴えてももう届かない。上書きされてしまうともう取り戻せない。自分だけは忘れないようにと何度も口のなかで繰り返す。誰の耳にも聞こえないところで繰り返し名告り続ける。


編集: 短編