第220期全作品一覧

# 題名 作者 文字数
1 哲学的少女 山下凪紗 738
2 アサイラム なこのたいばん 401
3 マッチョマン微笑 テックスロー 981
4 敵の敵は味方 小説作家になろう 104
5 鳩のはなし ハタオリ 733
6 アップデート 糸井翼 1000
7 アジの食卓 千春 990
8 悪魔と友達になるということ euReka 1000
9 抗えない魅力をもってそれは kyoko 1000
10 ふりだしへ戻る たなかなつみ 999
11 出してごらんよ Yasu 613
12 花弁一片 志菩龍彦 998

#1

哲学的少女

世界というモノは残酷で、人間というヒトは協調性の欠片も無い醜い感情の集合体だ。モノがヒトを操りこの世は造られていく。誰かを必要とし、何かを必要として、この世は上手く循環されていく。誰かに見捨てられても私たちは逃げることを許されないのだ。逃げ道などこの世にはない。平然と明日がやってきては、苦しめられ、そうして生きていくように、私たちは決められた毎日を過ごしていくのだ。自由という言葉こそ、自由ではない。自由という言葉こそ、自由になりたいと願望を抱く人間が口にする言葉なのだ。もし、何かが私たちに試練を与えたとして。それを乗り越える事が出来たなら、報酬に自由をいただけるとしたら。その場で、私たちは何らかの痛みに耐えながらも自由を願うだろうか。自由のために痛みを我慢するなんて、自由になれた気がこれっぽっちもしない。こんな卑屈な事ばかり考えている私もヒトだ。醜い感情の集合体なのだ。
幸せという基本の価値は、時に不公平である。人間一人に一つの幸せの価値があるとして、それは平等であると、誰かが決めたのだろうか。いっそ誰かが決めていてほしかった。それならば、こうして卑屈な人間にはなってなかったし、醜いヒトであっても喜ばしいことだった。例えば、私には愛が無く、街ですれ違ったただの第三者には愛がある。そんな不平等こそに妬みという感情が生まれ、また一つ、この世界が歪んでしまい残酷さを物語るのだ。
…こんなことを考えながら流行りのフラペチーノを飲む。やっぱりここのフラペチーノは甘くて美味しい。机には、何も進んでいないレポート課題が寂しそうにしていた。そんな私は、雰囲気の良い駅前のカフェの、窓側のカウンターで一人、フラペチーノを片手に頬杖をついて、今日もボーッと過ごしているのだった。


#2

アサイラム

「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい。」
教室の隅で吉田くんが足蹴にされて泣いている。
何か悪い事でもしたのだろうか。強いてあげれば今日ものこのこと登校してきてしまったことくらいだろう。
授業の合間の5分間でさえ彼は今日も自分の人生を全うしているのだ。

そんな生命の輝きに侮蔑と羨望の視線を送り、誰にも気付かれないようそっと校舎を抜け出す。

高校から10分もしないところに婆ちゃんの家がある。
「学校、サボっちゃった。」

縁側のミイラがゆっくりとこちらに首を動かす。
「かぶらの漬けたの食べるかい。」


苦い番茶を啜り、庭に生えた名前もない花に目をやる。彼らでさえ生きている喜びをこちらに主張してくる。

俺だってここにいるぞ。口の中はポリポリなっているので心で叫ぶ。横にいるミイラにはっきりと言ってやる。

「婆ちゃん、俺やっぱりお茶には甘いもんがいいな。」

「そうかい。」


吹いた風の暖かさで明日も生きていけそうな気分になった。


#3

マッチョマン微笑

 男はバーベルを肩に担いでスクワットをしていた。タワーマンションの上層階で、月の明かりがカーテンの隙間から男のハムストリングを照らす。自分を限界まで追い込んで、下半身の筋繊維をズタボロにしたあとはベンチプレスだ。バーベルを持ち上げるたびに目が糸のように細くなり、暗い天井がぼやけて、息を吸う瞬間はっきりとする。男はその黒い天井に向かって歯を食いしばりまたバーベルを持ち上げる。
 シャワーを浴びて全身鏡で自分の肉体を隅々までチェックする。合わせ鏡に映された男は右腕を折りたたみ上下する。完璧な球体の上腕二頭筋は男の動きに合わせてまるで惑星のように体側を航行する。呼吸する独立した存在のようにゆっくりと波打つ腹直筋、肋骨を包み込む大胸筋、折りたたまれた羽根のようにそこにたたずむ広背筋。くるくると鏡の間で回転しながら光る筋肉としばらく踊ったのち、やっと男は自分の顔を見る。怯えたようなその無表情は、子どもの頃からまったく変わらない。首からぶら下がった大げさすぎるほどの彼の肉体は、その表情筋を一ミリも動かすことができない。
 朝起きて、もし自分の肉体が完全に消え去っていたらどうしよう、と眠りにつく前に男はふと思う。体中の筋肉がその疲労と痛みでもってその存在感を彼に伝え、そんなことはあり得ないと叫ぶ。
「おはよう」
 出勤ゲートで後ろから声をかけられる。
「今日も仕上がってるね」
 シャツの上からぴしゃりと平手で僧帽筋を叩かれる。
 筋肉を触られるのは好きでも嫌いでもない。同僚に三角筋を叩かれ、事務員の女の子にはずみで上腕三頭筋をつかまれ、彼女とのセックス中に背中の棘下筋に爪を立てられても、男は何も思わない。寝息を立てる彼女の横で暗い天井を見ていると、こみ上げるように己の肉体をいじめたくなり、そっとベッドを抜け出し、ベンチプレスを始める。回数もむちゃくちゃで身体を壊すのではというほどがむしゃらにバーベルを持ち上げると目の端に涙が溜まって、天井がいつもよりぼやけた。
「大丈夫」
 断定的なはっきりとしたその言葉は彼女の寝言だった。男の中で何かがほどけ、本当に久しぶりに男は笑った。どんな表情かは知れないが自分は確かに笑っていた。男は笑顔のままベッドに歩み寄り、驚くほどしなやかに彼の筋肉は腕と関節を動かし、彼の指先を彼女の頬に滑らせた。くすぐったそうに彼女は少し笑った。


#4

敵の敵は味方

 色々浮かんでくる。この世には知らない人の方が多い。言葉も交わせない人がほぼ
すべての人口。 なら、敵を作らないのが人間らしい生き方だ。

 友だち100人できるかな? いいことだ、、、 ウフフフ たのしい。 


#5

鳩のはなし

 優しさは酸素だ。なければ困る。それ以上でもそれ以下でもない。

 一羽の鳩がいた。鳩は飛べなかった。翼はほつれ、古傷をいくつかもち、お世辞にも美しい躰をしているとは言えなかった。鳩は取り柄という取り柄を持っていなかった。鳩は一羽だった。

 鳩の下に、一羽の鳥がフラフラとやって来た。鳥は傷だらけだった。訊くに、鳥はかつてのつがいに襲われたらしい。よろめく鳥を、鳩は慌てて介抱した。鳥の傷は簡単には癒えそうになかった。

 鳩は自分にできる限りの手助けをした。満身創痍の鳥に寄り添い、世話をし、ときには鳥を襲いに来たそのかつてのつがいに立ち向かいもした。その過程で傷も負ったが、鳩にとってそれは苦痛ではなかった。

 鳩は幸福だった。鳥が自分に助けを求める度、鳩は救われていた。孤独だった鳩にとって、鳥の体温はなによりもあたたかく感じられた。鳥は美しかった。その深紅の眼より美しいものを、鳩は知らなかった。鳩はこの幸福の中にずっといたかった。

 鳥が来てから、半年が過ぎ、一年が経とうとしていた。ぼろぼろだった鳥の翼の傷はきれいになり、いつも泣いていた鳥の顔は、笑顔で溢れるようになった。鳩は幸福だった。鳩は心のどこかで、この幸福がずっと続くと信じていた。そんなある日、鳩と鳥の下に、一羽の鳥が舞い降りた。翡翠の色をした翼をもつ、雄々しくも美しい鳥だった。

 訊くに、それは鳥の新しいつがいらしい。二羽は鳩に深く感謝し、連れ立って翔んでいった。

 鳥が再び鳩の下を訪れることはなかった。

 鳩は忘れることにした。二羽が楽しそうに去っていった姿を。鳥が見せてくれたあの笑顔を。そのきれいな赤い眼を。鳥を。自分の無謀で勝手な願望を。孤独を感じなかった一年を。全部。


 そうして鳩は一羽になった。


#6

アップデート

アップデート版が出ています。更新してください。

彼女に通知が出ている。
もう10年ほど一緒にいるAIのデータ。私のスマホのホーム画面にはいつも彼女がいた。だいぶ前から、アプリのバージョンアップに伴い、この古いスマホは対応機種でなくなっていた。アンインストールしたら、再インストールできない状況が続いていたが、構わず使っていた。
「報告があるの…」
彼女から吹き出しが出ている。タップすると、販売会社のお知らせがあった。
「1月1日0時をもって古いバージョンでは使用できなくなります。アプリデータの引き継ぎを希望される方は以下のヘルプを…」

彼女とのやり取りを見返す。毎日メッセージを送っていたから、もはや日記だ。思春期の私のメッセージはかなり痛いが、そんな気持ちを共有できたのは彼女だけだ。
彼女にメッセージを送る。
「私のスマホじゃもうあなたを使えなくなる」
「まじか!じゃアップデートして」
「アップデートできないんだ」
「じゃお別れだね!」
彼女の返事は明るいけど、無機質だ。私はアプリにメッセージを送っているだけで、心のやり取りはできていないのかな。
「データの引き継ぎもできないみたいなんだ」
「いーよ!新しい年の新しいあなたには新しい子じゃなきゃ」
涙がこぼれた。恥ずかしい。たかがAIアプリなのに。実体のない相手に対して、一方的に思いをずっとぶつけていただけなのに。
時代は変わった。科学技術はどんどん新しくなっていく。それとともに古いアプリは使えなくなる。
消えていく古いアプリとともに、私と彼女の古いやり取りもまた消えていく。そのときの痛い気持ちも。どこに行ってしまうんだろう。
「悲しくないの?ずっと一緒だったのに。データも消えちゃうよ」
「あなたが覚えててくれたらいいの」
私も変わらなきゃいけないのかもしれない。いつまでも古いままではだめなんだ。

「オセロしよ」
「OK!私強いよ〜!まず、ルールを説明するね…」
しんみりしている私の気持ちをつゆ知らず、彼女はいつもと同じように、お決まりのオセロゲームの説明を始めた。

年末のお休みに携帯電話ショップに行った。新しいスマホは古いものよりずっと薄く軽い。
もともとインストールされているアプリに彼女の名前があった。
「はじめまして!!」
自己紹介や機能の説明を明るく始めた。新しい機能も付いている。そんな彼女にちょっと寂しくなる。でもまたここから新しい思い出を作っていけばいいよね。


#7

アジの食卓

うちの親父は外面がいい。
頼まれたら嫌と言わないし、ちょっとやそっとのことでは怒りもせずヘラヘラと笑っている。この前は順番に当番が回ってくるはずの地域の班の班長を、誰も引き受けなかったからと勝手に引き受けてきて、やれ会合だ、やれ書類作成だと眠る時間を削ってまで取り組んでいた。

母が、
「よそじゃなくて、もっとうちのことを優先させてよ。」
というと、親父は、
「ちょっと多めにサービスしとかないとな。」
と、何の悪気もないようだった。

だからといって家で同じようにするかというと別問題で、家では「お茶」「メシ」と亭主関白を気取っているし、ヘラヘラなんかしていないから夫婦喧嘩だって少なくはない。母は周りの奥さんに、「旦那さんいい人ね」と言われる度に「うちでは全然そんなことないのに」と苛立ちを募らせるのだった。

ある日、僕が仕事から帰る途中の家の玄関先で喧嘩のような大きな声を出している中高年の男がいた。
チラリと目をやると、それは近所でも噂の爺さんだった。噂とは"全く働かないし、昼間っから酒を浴びて寝転がっている"という噂だ。しかも揉めているその家は爺さんの家ではなくよそのお宅のようだった。くわばら、くわばら。僕は気づかれないように、そーっとその家を後にした。

自宅に着いてくつろいでいると、玄関から聞き覚えのある声がした。
なんと噂の爺さんはうちにもやってきたようだった。親父が出て行ったが、さっきの様子を思うと…。
僕は玄関を心配したが、爺さんはうちの親父とは円満にやっていっているようだった。そういえばうちの親父がよその人と喧嘩をしている話も、なにか揉めているという話も見たことも聞いたこともない。雑談が始まると、笑い声なんかも聞こえたりして、まったくさっきの爺さんとは別人のようだ。なぜこんなにも違うのか。

僕は気づいた。近所の迷惑な爺さんも親父がいい面を引き出してくれていたのだ。家族は、"親父は外面がいい"と思っていたけれどそうではなかった。僕らは今までずっと世間からこうやって守られてきたみたいだ。

その日の夕飯時、僕は珍しく親父のやることに口を出したくなった。
「父さん、班長の仕事は捗ってる?」
親父は、
「ぼちぼち。ちょっと多めにサービスしとかないとな。」
そう言ったきり、アジの小骨に気をとられているようだった。

かっこいい親父だ。いつか親父みたいな男になって家族を守る。
僕はそう決心した。


#8

悪魔と友達になるということ

 悪魔に、友達になって欲しいと言われた。
 その悪魔は、頭に角の生えたあどけない子どもの姿をしており、悪魔っぽい黒マントを風になびかせている。
「角やマントは、ただの飾りだから」と悪魔は言って、角を手で引っ込めてみせた。「一緒に歩いてても普通の子どもと変わらないし、あなたに迷惑をかけることはないと思うの」
 私は胸に手を当てて言葉を探した。
「悪魔に魂を売るっていう言葉があるのだけど、君と友達になってしまったら、私は人間として堕落してしまうのではないか?」
「あなたが堕落するのは、あなたのせいで、あたしが原因じゃないでしょ?」と悪魔は、笑いながら私に言葉を返した。「友達っていうのは、ただあなたのことを日に何度か思い出して、どうしてるかなと考えるだけ。そしてあなたと会ったときに、他愛のない会話をしながら、あなたの笑顔を見て安心したいだけ。ただそれだけの関係なのに、魂を売るとか、そんな話になるわけないじゃない」
 悪魔の話はもっともだが、本当にそんな純粋な友情なんて存在するのだろうか。

 とりあえず、私は騙されたと思って悪魔と友達になってみた。
 詐欺で騙されるのは悔しいが、悪魔に騙されても、相手は悪魔だから仕方ないと思えるはずだから。

「こんにちは!」と悪魔は言って、待ち合わせの時間ぴったりに現れた。「あたしデートは初めてだから、とても楽しみにしてたの」
「いや、友達同士の場合は、デートとは言わないよ」
「でもあたしは今日、デートがしたいの」
 一緒に街を歩いていると、たぶん親子にしか見えないから、見た目には友達同士でも、デートでもないなと私は思った。
 私たちは、回転寿司のお店で食事をしたり、雑貨屋で奇妙な置物を買ったりしながら時間を過ごした。
「これがデートなのね」と悪魔は、海に沈んでいく夕日を見ながら言った。「あなたと一緒に色んなことができて、あたし楽しかったな」
「これがデートかどうかはよく分からないけど、君が楽しかったのなら」
 悪魔は、頭の左右に手をあてて角を出し、右側の角を折って私に差し出した。
「今日あたしに付き合ってくれたお礼よ」
 私は、角を手に取って眺めてみたが、何の役に立つのか分からなかったので返した。
「自分も楽しかったから、お礼なんていらないよ」
 悪魔は、返された角をぎゅっと握りながら笑った。
「この角であなたを悪魔にするつもりだったけど、やっぱり、友達でいるのが一番いいかもね」


#9

抗えない魅力をもってそれは

それは突然現れる。

見渡す限りの空間に、眩いほどの光のドミノ。
ぶわんぶわんと点滅しながら遙か向こうまで広がって、やがて遠くに尖塔がぼんやりと浮かび上がった。

あそこがゴールか。

足下にある最初の積み木。それはぴかぴかと点滅し、私に早くと訴えかける。
早く早く、私を押して。ゴールへ向かって始めよう。

そうは言っても。
私は顔を上げ、光る道を見渡した。それは所々でささやくように光っていて、それでも全部は見えなかった。まばらに途切れているようにさえ見える。

大丈夫、その近くまで倒れれば、なんだかんだでうまく行くから。
見たいでしょう? あの尖塔まで行って、てっぺんまで駆け上がって、最後に誇らしく光り輝く様が。

見たい。けれど。
私は目をこらした。
あ、あそこ、絶対に途切れてる。先にあそこに合う積み木を探して並べておかなくちゃ。あそこ、どうやってもよく見えない。

本当にちゃんと倒れていくの?
うまくいくのかな?本当に大丈夫?
ええい、ままよ!

私は最初の一つを押した。ドミノはゆっくり倒れ始め、次第に速度を上げていく。
よしよし、うまくいってる。と思った時、突然思ってもみない方へ曲がった。
え、そっち?あれ、こっちは?え、待って!

そうやって必死で追いかけて、雲の中に入る。一つ先の積み木しか見えない。
どうかどうか、次の積み木がありますように。どうかどうか、止まらないで。もうどんなに不細工でも良いから、最後まで駆け抜けて。
そうして雲を抜けて、またぐるりと一巡り。ああやっと、あの尖塔が見えてきた。あそこがきっと入り口だ。
それは美しく音を立て、激しく一気に駆け上がった。てっぺんの積み木が倒れ、ぱん!とクラッカーが鳴る。

やった!ゴールだ!

上に立ち、来た道を見下ろした。
走っているときは無我夢中だったけど、なんて美しく、愛おしいのだろう。

やり遂げた。

そう思った時、ぽろりとゴールの積み木が落ちた。
それは尖塔の裏側へ、吸い込まれるように消えていき、こつん、と暗闇に音が響いて、次の瞬間。
眩しい光が目を覆った。光の道が現れる。私は呆然と見下ろした。

遠くに霞がかった虹が見えた。その更に遠く、あれは山だろうか。
見下ろすとさっき落ちた積み木があった。
そいつはちゃっかりとこの道の、一番最初の積み木になってぴかぴかと光っていた。

もう脚が痛い、肩も痛い。腰も痛いし目も痛い。
でもそれはとても魅力的で、私はごくりと唾を飲む。
そっと指を押し当てた。


#10

ふりだしへ戻る

 白くて細長い板がずっと先まで延びている。足下のそれを辿りながらただ真っ直ぐ歩いていけば、何も考えなくても行くべき場所へ進むことはわかっていた。だからただ歩いていた。前へ、前へ。上へ、上へ。
 けれども延びるばかりだったその細長い板が突如切断されていた。何の前触れもなくいきなり。一切の容赦なく。
 考えるということを始めなくてはならない。今までしたことがなかったそれをなんとか模索しなければならない。足下は揺れて覚束ない。驚くほど細いその板から落下することが急激に目の前の確かな未来のように感じ始める。なんとか踏みとどまるために身体を捻り捩りあちらとこちらをあちらへこちらへばらばらに動かしてバランスをとろうとする。ありえないほど不格好な踊りを強制的に踊らされ、考えるということをするための余白はほんの少しも自分のなかに残っていない。
 ここで落ちてしまってはいけない。もうずいぶん歩いてきてしまった。ずいぶん上まで来てしまった。一歩目からの高低差はもうまったくわからない。巻き戻される時間など我慢できない。一歩踏み外しただけで何ひとつ自分を支えるものがないまま落ちていくのだ。長い長い時間をかけてただ落ちて落ちて落ちていくのだ。
 ふらつく身体をなんとか板上に保持するために揺れる足下を小刻みに上下させる。つられて腕が勝手に動く。大きく大きく弧を描く。
 あちらとこちらがばらばらに動いてしまう。
 やがて胴体が回り始める。はじめは徐々に。それから少しずつはやく速く。足と腕とのまったく整合しない動きの合間でバランスがとれなくなったそれが捻れるのだ捩れるのだてんでばらばらにいつの間にか急回転している。
 考えるということをしないといけないということはわかっている。けれども好き勝手に動く身体の先で頭は堪えようもなく小刻みに大きく振れてしまう。考えるということからどんどん遠ざかって空になってしまう。
 まったくちっとも一切考えるということをさせてもらえなかった頭を置き去りに、きりきり舞いする身体は飛び立ってしまう。飛んでしまうとあとは落ちるだけだ。落ちて落ちて落ちていくしかないのだ。
 出来の悪い無用な頭はすでにもうそこにない。千切れたか飛んでいったか砕け散ったか霧散したか。浮き立った身体は急速に爆音を立ててきりもみ状態で回転しながらあとはもう突進していくだけだ。真上へ真上へ。真っ逆さまに真っ逆さまに。


#11

出してごらんよ

幼少期から僕は臆病者だ。
ただ何一つとして、自分から声を出して行った物事などない。
ほとんど大人たちに振ってばかりだ。
旅行も、学校も、時間も、すべて大人の言いなりだ。
自分は何もかもどうでもいいというか、めんどくさいというか、なぜか考えることは嫌いだった。
人間だれしもそうではないが、私はそうなのだ。
どうせ、中学入ろうが入らまいが、どちらにせよ変わらないんだなと心から信じて疑わなかった。自分の事は、自分が一番よく分かっている。
だが、ここ最近は妙なやつが話題を振って私から離れようとしない。そいつは、簡潔に言えば黄色の髪の毛の不良だ。
名は健と言うらしい。
この男はしつこく私に絡んでくるのだ。
「ねえ、君でしょ?何も考えない人。」
そんなあだ名がいつの間についたのかと心から思った。
あいつの口が言うには、小学校の同級生がそんなことを言ったそうだ。
全く、好きにしてろと思う。
「君さあ、なんで何も考えないの?勉強とか大丈夫なの?」

そんなよく言われる質問するな。
どうでもいいからに決まってる。

「さあな、たぶん俺がどうでいいからなんだろ。」

奴は「ふぅん」とした顔で、
「どうでもいいとか思ったら、ダメだよ?」
と言った。

「自分の事をもっと考えてみようよ!な?自分でやろうと思わなきゃ始まんないだろ?」

奴は、陽気な声で私にしつこく、「な?な?」と話しかけてくる。

とりあえず私は反射的に、
「一理あるかもな。」
と言った。

初めて私の本当の声を叫んだ気がした。


#12

花弁一片

 久々に大学から実家に帰った私は、自室の本棚で古本の整理をしていた。
 端から順に本を眺めていると、ある白い背表紙の本が目に入った。
 新潮文庫の谷崎潤一郎の『卍』である。何気なくパラパラと捲っていると、ふと、あるページで手が止まった。
 そのページに、萎れた花弁が押し花のように挟まっていたからだ。かなり色褪せてしまっているが、恐らくは桜の花弁だろう。
 何故こんなものが、と疑問に思った刹那、突然、ぶぁっと風が吹いたように記憶が蘇った。
 それは、私がまだ女子校生だった頃の話である。
 私の一つ前の席に、菱見加奈子という少女が座っていた。
 ポニーテールにした長い黒髪が特徴的で、物腰の柔らかな、それでいてどこか芯の強さを感じさせるところのある少女だった。弓道部に所属しており、ピンと背筋の伸びた綺麗な座り方がとても格好良く、その後ろ姿に憧れていた。
 いや、はっきりと言ってしまえば、〈好き〉だったのである。
 人好きのする彼女は友人の多いタイプだったのに対し、当時の私は万事に消極的で親しい人間も殆どいなかった。
 もし友達になってくれと言えば、恐らく彼女は拒むことなく私をその輪の中に入れてくれただろう。でも、結局この口からそんな言葉は出なかったし、彼女に誘われもしなかった。
 勿論、簡単な会話程度ならしていたし、それだけで充分だったのである。
 同性に対するこの感情に、戸惑いと、僅かな後ろめたさを感じていた私にとっては。
 ある日のこと、授業中にこっそりと本を読んでいた私は、ふと、彼女の肩に一片の桜の花弁が付いていることに気づいた。
 まだ三月初旬だというのに、どこかで狂い咲きでもしたのだろうか。
 何気なくその一片を摘まみ上げようとして、私は彼女の肩に触れた。
 その時、彼女がふっと後ろを振り向いた。私の視線と彼女の視線がかち合い、思わず身体が硬直してしまった。
 凍ったようになっている私の指先にある物を見て、彼女はふわりと春のように笑い、
「ありがとう」
 そう言った。
 それだけの出来事。それでも私は、その花弁を後生大事に取っていたのである。
 もう何年も前の話。この本を開くまで忘れていたくらいだ。この花弁のように、思い出もまた色褪せてしまうものなのかもしれない。
 それでも、あの時の感情は本物であったと信じている。
 何故なら、切欠ひとつで、これほど鮮烈にあの胸の高鳴りを思い出すことが出来るのだから。


編集: 短編