# | 題名 | 作者 | 文字数 |
---|---|---|---|
1 | 柘榴の一枝が闇をはらう話 | 瓶八 | 979 |
2 | お先に失礼します。 | テックスロー | 1000 |
3 | 色のないキャンバス | 217/にーな | 544 |
4 | 湖西線に乗って | 千春 | 1000 |
5 | 渇して井を穿つ | なこのたいばん | 295 |
6 | メリクリ | 糸井翼 | 1000 |
7 | あまのじゃく | 志菩龍彦 | 1000 |
8 | traveling | 世論以明日文句 | 659 |
9 | 出会いと別れ | わがまま娘 | 999 |
10 | 67482円の男 | ウワノソラ。 | 1000 |
11 | 未完で散って | kyoko | 977 |
周公は両手に掲げていた黒い布を愛する女の枕元に置いた。
布の上には枝のついた柘榴が乗っている。
今朝見つけて自ら手折ったものだ。
肌理の粗い陶器のようにざらりとした外皮がざっくりと裂け、中から紅玉の新鮮な実がこぼれ落ちそうに顔を出している。
床に伏せていた女――小苑は体を起こしながら柘榴を一瞥し、そのあと呆れた眼差しを周公に向けたが、周公は怒られた気がしない。
ため息をついた女は、諦めて柘榴の枝を手に取り、注意深く調べはじめる。
やがて頷いて周公の方へ居直った。
どうやらお眼鏡に叶うものだったらしい。
「影を取らせましょう」
小苑が呼びかけると、奥の部屋から下女が出てきて準備をはじめた。
あっという間に小苑の寝台は、白無地の衝立で三方を取り囲まれた。
その間、小苑は慣れた手つきで愛用の燭台に灯を点した。
周公が下女を手伝って中庭に面した雨戸を閉めると、部屋は闇に包まれ、衝立には蝋燭の炎に照らされた小苑と柘榴の枝の影が映った。
小苑は少し変わった女だった。
普通の美姫がするように鏡を覗いたり花を愛でたりして満足を覚えるようなことはしないで、自分や草花の姿を影に映して眺めることを無上の楽しみと感じるのだった。
周公の正妻は小苑の影好きを薄気味悪いと毛嫌いしているが、周公は面白い趣味だと思っていた。
「この枝と今の私は思いの外お似合いね」
興に入った様子で衝立に映る影に向かいながら、柘榴の向きを変えたり立ったり座ったりしてあれこれ試す小苑を、周公と下女は眺めていた。
彼女は二月前とは見違えるほどに痩せてしまっていた。
前から煩っていた病がいよいよ酷くなり、伏せる時間が日に日に伸びて、今では周公が訪れる時くらいしか体を起こさないということだ。
けれど今、影で遊ぶ彼女は、そのような境遇から自由になり、ただ夢中になっている。
小苑の言う通り、病に衰えた女の居姿と、ふてぶてしい割れ柘榴を備えた静かな枯枝は、衝立の上によく調和して様々な景色を作っている。
そのことをこの女はおもしろがっているのだ。
十日ほど前に見事な菊の一枝を持参した時には、ここまで嬉しそうではなかった。
「花はよくできているんだが、人間の方がこんなに痩せちまって」そう言うなり、小苑の影は肩を落として、早々に灯火を吹き消してしまった。
その吐息が周公の心の火もかき消してしまい、この十日というもの暗闇の中にいたようであった。
目の前に腹を空かした犬がいるので桃太郎がきびだんごをやると恩を返したいと言ってついてきた。しばらく行くと猿が倒れていたので桃太郎はそれを起こして目をじっと見た。ぐぅーと猿のお腹のなる音が聞こえて桃太郎は口を開いた。
「俺のために時間と未来を使うと約束するなら、くれてやろうか、きびだんご」
猿は弱く頷いた。
歩いていると雉が鳴いていた。雉の鳴き声は美しかったが、しばらく見続けていると疲れたのか桃太郎にこう言った。
「歌聞いたでしょう。歌。食べ物ください」
桃太郎と犬猿は顔を見合わせて驚いた顔をした。
「いや、決して頼んだわけではないし、歌が勝手に流れてきた」
雉は空腹で吐きそうになりながら
「そんな都合のいい話はないでしょう。分かりました。あなたについて歌を歌い続けます。だからきびだんごをください」
「ついてきてくれるのは嬉しいが、歌は不要だ。たとえばその嘴で鬼の目を突くといった活躍を俺はお前に期待する」
雉はかつては恋人の毛繕いをしたその嘴を武器として使うことを思って涙した。ところでこの物語は私の手になるものだが、その私とはいったい誰だかお分かりか。
私は健吾だ。桃太郎の家の二軒先に住んでいて、小さいころたまに彼と遊んでいた。彼が鬼退治に出かける日、私は家の前でじっと座っていた。それ以外にすることがなかった。
「やあ健吾」
「やあ桃太郎」
「腹が減ってるのか」
「そうだね」
「きびだんごをやろうか」
「いいのか」
「その代わりお前は何か俺にしてくれるのか」
「いや、何もできることは無い。時間はあるから、君について行くことはできるよ」
「それでいいか。健吾は友だちだからな」
それ以来彼らの旅に同行しているが、彼らが鬼ヶ島の場所を突き止めたり、船を作ったり、鬼と戦ったりしているときも私はずっとじっとしていた。次第に仲間たちは露骨に「あいつは何なんですか」と桃太郎に言うようになった。桃太郎は「あいつは健吾だ。俺の友だちだ」と返したが、今や友情以上の絆で結ばれている彼らの間に響く友だちという言葉の幼稚さに、桃太郎は思わず自分で笑ってしまった。犬猿雉もどっと笑った。
そんな私は桃太郎の指示で彼らの英雄譚を日々綴っている。が、あまり桃太郎の意にそぐわず、筆も遅いため、とうに彼は物語の外注をしたと聞いた。それでも筆を止めない理由を問おうとする頭を叩くようにチャイムが鳴って、今日も定時だ。お先に失礼します。
「みんな、席について。」
______担任の先生のこの一言で私たちの日常が始まる。
ざわざわと騒がしかった教室は段々と静かになっていくのが目に見えてわかった。
「今日はみんなに自然の絵を描いてもらいます。」
淡々と先生が喋る。気付いたら机の上には白い紙が一枚置いてあった。
「たとえば山とか、海とか。自分が好きなのを思うがままに描いてください。できたら先生に見せてください。」
その声をきっかけに周りの子達はクレヨンを手に取って絵を描き始めた。
「先生!できた!」
静かな教室に元気な男の子の声が響き渡る。先生がその子のところに向かうと、
「ダメよ、ここはこんな感じで…」
とアドバイスを始めた。
男の子は少々不満げな顔をしていたが、また絵を描き始めた。
他の子からも「できた!」「先生!見て!」と声が上がるが、先生はどの子にもさっきの男の子にしたようなアドバイスをする。
私も、「この色なんて使わないの、自然は緑でしょ?ほら、新しい紙をあげるから描きなさい。」と言われた。
結果的にはみんな同じような絵になった。
緑の山、赤い太陽、青い海。
一人一人感じ方が違ったっていいのに。
なんかまるで個性を潰して色をなくしたキャンバスみたい。
キャンバスは色があるから味が出ていい絵になるの。個性のない絵なんてつまらないじゃない。
しんとした水面は凍っているかのような静けさをたたえて微動だにしなかった。これがすべて淡水だなんて信じられないな。それが初めて琵琶湖を目の前にした感想だった。湖の西側を走る車窓からは海のように広がった湖面が見えていた。そこには海にはない透明感が漂い、ある種の色気のようなものがあった。
祐司は揺れる新快速で北に向かっていた。用事は顧客先への訪問だったが、多忙な仕事で張り詰めた神経に束の間の休息を与えるささやかな旅のような気がしていた。
先日、祐司は友人に連れられて演劇を見に行った。演劇なんて無駄なものだ。面倒なだけの誘いだと思ったが、たまの休日に手持ち無沙汰でいるのも飽き飽きしていたので、暇つぶしにちょうどいいからと自分を説得し友人の誘いに乗った。
観劇は祐司の予想に反したものだった。内容はシリアスなものだったが、社会を風刺したようなブラックジョークも劇中に織り込まれていて好みだった。舞台装置も凝っていて、工場見学でも見ているかのように整理されたシステマティックな美しい動線を見ることができた。久々に何にも捕らわれずに笑い、感動し、初めは悪態を突いていたものの、いい時間だったと友人には感謝をした。
舞台から聞こえた台詞がもう一度思い起こされた。
「替えが利かないのは時間だけ。あとは時間を投入し正しく努力すれば実現できることばっかり。」
こんなに無防備な時間だからこそこんなにも胸にささるのだろう。時間。俺は何にどれだけの時間を使ってきただろうか。これまでは仕事ばかりやってきた。確かに成果が出ればやりがいもあったし楽しかったが、あとには何も残っちゃいない。無我夢中に毎日をこなしてきただけだ。趣味に興じるなんて自分には向いていないと思っていた。家庭を作ることだって、選択肢としてあってもよかったのかもしれない。祐司はこれまで過ごしてきた瞬き程の時間とこれから過ごすであろう限られた時間に目を向けた。俺はもっと多様な時間を過ごしてもいいのかもしれない。
そう思ったところで目的の駅についた。今日は仕事だ。一気に現実に引き戻されて頭がクラクラする。忘れ物がないかどうか今一度確認し、顧客先に向かった。
帰り道は便も残り少ない鈍行だ。暗くなった車窓からは真っ暗な景色しか見えない。祐司はスマホを取り出してコメディーのチケットを一枚買った。
自分らしくあれる空間も努力次第でできるだろうか。次は腹を抱えて笑いたい。
家族が寝静まったリビング。
テーブルの上の小皿、おにぎりが2つと卵焼き2つ。横には柴漬けが添えられている。
「夜食に食べてね。おにぎりはシャケとコンブです。」
夜食には多いだろババア。紙になった母と会話する。
空になった小皿をテーブルに残す。でっぷりした腹をさすり無意識に窓の外へ。親父のタバコに火をつける。
紫のため息が夜の黒、星の白と混ざり合う。
『天の川みたいだ。』
言いかけた自分の気持ち悪さに無精髭の端が少し角度を上げる。
窓を閉め階段を登る。でっぷりした腹がぷるんぷるんと揺れる。
ベッドの上にゴロンと転がる。左手にケータイを持つ。右手が股間に伸びかける。
ペンに持ち変える。
今日もまた夜が明ける。
目の前の怪しい男が言う。
「私はサンタクロース」
それとも俺の頭がおかしくなったか。家の中に突然赤い服を着たじいさんが立っているのだ。理解が追い付かない。
「ふざけてんのか、出ていけ、ぶっ殺すぞ」
「ふざけていないし、出ていかない。私は頼まれてここに来た」
表情一つ変えない男は淡々と話すが、妙に迫力があった。腹は出ているが、体ががっちりしていて大きいからかもしれない。
「なんだっていうんだよ」俺の声が少し震えている。
「お前の子供に頼まれた」
「子供?そんなやつはいねえ」
…いや、いる。ずっと前に別れた彼女の子供。俺は犯罪も平気でする男だ。そんなやつは人の親になってはいけない。だから、俺の方から消えた。
「生物学的には、親だな」
「生物学の話はしてねえんだよ」
「私は良い子のところにしか行かないが、その子の願いを叶えないといけない」
俺の子は良い子なのか。
「で、そいつの願いはなんだよ」
「お前の願いを叶えてほしいそうだ」
たぶん、別れた彼女は子供をがっかりさせないように、父親はいいやつだと信じ込ませた。誰も傷つかない嘘だ。
「そいつは幸せなのか」自分の質問で恥ずかしくなる。幸せ?俺には一番似合わない言葉だ。
「わからないな」
「なんでだよ、お前、そいつに会ったんだろうが」
「人の感情はよくわからんのでね」本物のサンタってこんなやつなのか?こいつ、悪魔か何かなんじゃねえのか。俺の魂を食いにきた、とか。
「だったら…」
思わず鼻で笑った。こいつが悪魔でもサンタでも何でもよかった。今更、俺の願いなんてどうでもよいが、勘違いだったとしても、俺のことを一瞬でも思ってくれるやつがいるなら。
「人の願いを叶えるのは何かと手間だな」
サンタはつぶやいて俺の目の前から消えた。
「サンタさん、来たよ」
男の子が嬉しそうにお母さんに話しかけた。お母さんはプレゼントを隠している棚をちらりと見た。
「夢の中で会えたのかな?」
「夢じゃないよ、夜にね、来たんだ」
お母さんはにっこりした。夢を見ただけなのね。かわいい、幸せな夢。
「サンタさん、どうだった?」
「お父さんは今、どこにいますかって聞いたの。もし、辛い思いをしていたら、幸せにしてあげてほしいですって」
こんな小さい子に、こんなことを思わせていたとは。ごめんね。ああ、わが子ながら心の優しい子。
「ちょっとしたら、戻ってきて、お父さんは遠い国で幸せに暮らしているから、ぼくも元気でねって言ってた、って」
背の高い楠の間から差す斜陽が、橋村直樹の顔を橙色に照らしていた。
放課後、仲の良い友達とかくれんぼを始めたのはいいが、鬼役がなかなか見つけてくれず、直樹は退屈していた。
楠の根の上に座り、直樹は先程出会った少年のことを思い出していた。
その同い年くらいの見知らぬ少年は、丁度この場所に座っていた。小汚い格好をした彼は、人懐っこい笑みを浮かべて名前を尋ねてきた。訝しみながらも、「橋村直樹」と素直に答えると、
「はしむらなおき……か、あんがとな」
少年はにっこり笑うと、そう言い残して去って行った。
あれが一体誰だったのか、ずっと考えているが解らない。
それよりも、直樹は早く自分を見つけて欲しかった。いくら何でも遅すぎる。
隠れてからどれ程の時間が経っただろう。
山鳩の間の抜けた鳴き声を聞きながら、夕飯のこと等想像すると、ふいに心細くなり、無性に父に会いたくなった。
降参して家に帰ろう。
直樹が決心して腰を上げかけた時だった。
「うわ、びっくりした。誰?」
見知らぬ少年が急に眼前に現れ大声をあげたので、驚いた直樹は尻餅をついた。
先程の少年ではない。身なりは綺麗だし、顔立ちもまるで違う。ふと、直樹は何故か彼に親近感を覚えた。
少年は手に妙な機械を持っていた。直樹が尋ねると、彼は呆れた様子で、
「スマホだよ」
ゲームボーイよりも小さいのに何やら綺麗な映像が動いていて、直樹は唖然とした。
うそ寒い風が吹いて、森中の木がざわめいた。直樹の心と同じように。
「爺ちゃん、変な子がいるよ」
落葉を踏む音がして、老人が近づいて来た。
最初、直樹はその老人を自分の祖父だと思った。でも、似ているが、どこか違う。別人だ。
「名前は何だっけ?」
「橋村……直樹……」
少年の問いに、直樹は震える声で答えた。何故だか解らないが、とても恐ろしかった。説明仕様のない恐怖がわき起こり、足がガクガクと震えていた。
老人と直樹は呆然とした様子で互いに見つめ合っていた。
二人は同じ事を考えていた――そんなことがある訳がない、と。
「あ、パパだ。ねえ、ちょっと聞いてよ」
少年が後ろを返って、大きく手を振った。
逆光で顔は見えないが、誰かがこちらへやって来る。
少年が、何かを言った。
次の瞬間、直樹は森の奥へと駆け出していた。あまりにも、恐ろしかったから。
少年はこう言ったのだ。
「この子の名前も、パパと同じ橋村直樹なんだって」
金曜の午後、仕事もはやく片付く。定時に退社。
タクシーもすぐに付かまり跳び乗る。
オフィス街、
「不景気で困ります」。
「どちらまで行かれます?」
「ちょっとそこまで」
ギアはトラベル、アクセルを推して、握ったスティックを右に倒せば。
風に瞬ぎ、ぐんぐんと、雲を昇り。ドライバー越しのガラス濾しには、大きな満月、ウサギが浮かんで射るよ。
人は小さく、街並がワッフル。ティアラなネオンは、春の夜の夢の如し。
歌がヒカル、君をノせて、アスファルトを照らすよ。
空を斬り咲き、どこへ往くのかしら。甘冷えの風と山の向こう。遠くならどこでも。
あれ、何かは別らないけれど、壊したい衝働、急ぐことはないけれど。
「仕事も、運転も、リモートがいいですね。キャンディーは、いかがですか」
織姫が好んだ、黄色い海と星の雫のコンペイトウ。
「お聴かせしたい歌があります」
そんな事、言われちゃうと、汽持ちに拍車かかりますわ。
水モを飛べば、波を誘い、雲を仰ぐ。
若さゆえに、すぐに千ラり、風之前ノ塵に同じ。
胸を寄せ手、いつもより目立っちゃおう。
目的値はまだだよ、いつか見える、大橋とリオの笑画く夜景。
窓を下げ手、全ては気分しだい。
色即是空空即席四季 トゥクトゥクトゥクトゥク タラララ タ
みんな踊りだす時間だ。
待ちきれずに今夜、隠れて居た願いが渦きだす。
こんな、蜜に成る地間だ。
あれ、どうしてだろう、民な、少しだけ不安が残ります。
でも、でも。
彦星が丑を牽いてやってくる。
素敵な何処へ、連れて逝って。
思いは年を越してもなお。
無常人身無病息災 スタスタスタスタ トゥルルル ラ
学園の卒業生の証としてラピスラズリの宝飾品が渡される。指輪だったり耳飾りだったり首輪だったり。外に羽ばたいて行っても、いつも一緒だという証だ。
そう、いつも一緒なのだ。今の私にはもうただの監視装置にしか思えないけど。
ただの通信機として、卒業生同士が楽しんで使っていることもあるらしいが、血の契約を交わした魔法がかけられているわけで、一種の呪いみたいなものだ。
俗にいう白魔術や精霊魔法を学び、外に出て、人々の助けとなるために、学園側から依頼がくることがある。
ただ、卒業生の数は多く、当然全員を把握しているわけではない。
故に説明をちゃんと受けて卒業したにもかかわらず、意外と売りに出す人も多いらしい。物が宝石なので、普通に価値があるのだ。
呪いのせいか、私が盛大に迷子になったときもこの耳飾りは離れなかった。よく割れもせず、千切れもせずここに居続けたなと感心する。
そんな石を弄りながら、聞こえる声に適当に相槌を打っていた。
「そう言えばさ。道中、雇ってやるって話、誰かにした?」
「は?」
道中?
「その仕事が終わったら、自分のことろで働けば? って言ったんでしょ?」
「誰に?」
言っておいて、そう言えばそんな話をしたことがあったような気がしてきた。
「ほら、迷子になる途中で……」
「あ」思い出した。
盗賊の中に学園の卒業生が混じっていたのだ。いろんな国を見て回りたいと思って暫く旅をしていたのだが、お金が底をついて盗賊に交じって旅をしているのだという、なんとも合理的なようでそうでもない理由でそこにいた彼女に、そう言えばそんなお誘いをしたのだ。
「あなたを見つけてくれたのも、彼女なのよ」
失せモノ探しが得意なんです!! って来たときは笑ったわよね、と失笑する相手に、私は失せモノだったのかと苦笑いする。
「暫くこっちで仕事してもらってたんだけど終わったから、そっちに向かってもらっているから」
「は? それいつの話よ」嫌な予感がする。
「今日、明日ぐらいには着くんじゃない?」
「は?!」
大きな声が出て、庭の木にとまっていた鳥達が一斉に飛び立った。
遠くで「は〜い」と女中が玄関に向かっていく。
「もっと早く教えなさいよ!!」
「そういうのは感じるものじゃないの?」
チッと舌打ちをして、通信を一方的に切って、玄関に向かう。
女中が玄関を開けると、新しい風が舞い込んできた。
運命に導かれて、出会いと別れを繰り返し、これからも生きていく。
私は彼のジーンズに染み付いた匂いが好きだった。履き古したそれには彼自身の匂いや部屋の匂い、もしかしたら飼っている猫の臭いなんかも混ざっていたのかもしれない。
うちの近所に実家暮らししていた彼は、よく私の家まで歩いてきていた。ふらりと、会いたいなんて連絡をよこしては、遅い時間にシャワーを済ませてやってきて、だいたい明け方になると「猫の餌をあげに行かないと……」なんて言って帰っていった。
つい最近、私は隣の隣町へ引っ越しした。端的にいうと、二ヶ月前には彼と別れていた。つまり私は、彼にいつでも会える場所に留まるのが嫌で引っ越ししたのだった。
そうは言っても気掛かりがあった。一向に返されないままになった67482円。まんまと貸してしまったなと、今になっては呆れてしまうような額だ。どうせ返ってきやしないだろうと諦めつつも、ひょっとすれば返してくれる可能性もなくもないのでは、と彼の持つ善意に期待している私がいた。
だから私は今日もこうして、茶封筒に借用書と簡単な手紙を入れて彼の家に向かっている。
かつての最寄駅に降り立ち目的地へと歩みを進めた。商店街を抜け、通り慣れた生活道路を右へ左へ折り曲がって、前住んでいたマンションを通り過ぎて、また右や左に行く。ほどなくして彼の寂れたアパートに着いた。
鉄製の階段を渇いた音を立てて上がると、どこかひっそりとした屋根もない二階に到着する。下が透けて見える金網状の通路を通って彼の家の前まで行くと、窓からうっすら光が漏れていて珍しく誰か居るようであった。
小さなチャイムを鳴らし「すみません、中川隼人さんはいらっしゃいますか」と中の住人に聞こえるようにやや大きな声で尋ねてみると、しばらくして磨りガラスごしに影が動いているのがみえた。ドアが開き、小学生くらいの男の子が体を覗かせた。
「どちらさまですか」
「上村です。隼人さんいる?」
「今はいません」
「そっか。じゃあ、これ渡しといてもらえる?」
怪訝そうに茶封筒を受け取りつつも、弟と思しき男の子は了承してくれた。
「お金返してくれないと困るから、早く返してねってお兄ちゃんに言っといて」
一瞬、目をひときわ見開き、こちらを見つめたまま困惑している彼に会釈をしてその場を後にした。
階段を下りながら、あの家には猫が居るんだろうかと考えた。中に入ったことはないのでよく分からなかったが、ふいにそれが気になっていた。
走馬灯とは本当にあるのだと身をもって知った。
そう感心する自分と脳内を様々な景色が過ぎ去ってゆく様を、ただ見つめている自分がいた。傾いて行く景色の中、視界が地面に叩きつけられるその時まで。
恥の多い人生であった。
などというと某有名小説をどうしても彷彿としてしまうが、あのようなハンサムな人生ではもちろんない。
絵本から始まった私の読書人生は中学の図書室といういかにもな場所で、一生を文学に捧げるという誓いを立ててしまった。ローティーンの柔らかな聖域はこの誓いを誰かに笑われでもしたら簡単に傷ついてみっともなく声がうわずってしまうのがわかっていたから、ひっそりと大切に大切に肉の内に囲い、ひたすらに産毛を撫でて愛でた。いつか必ず、日の目を見せてやるから。誰の目にも立派な錦を飾ったら、中学生の時からコイツはここにいたんだと、これ以上ないほど鼻を高くして皆に見せてやるから。
そうして幾年月。
錦どころか折り鶴すら飾れていない。
だが肉の内にある誓いは変わらずに愛しく、人生は長い。
そう思っていた。
天気の良い日だった。
今日の執筆を終えていつもの散歩道。
少し前の角からボールが転がり出る。
向こうからは大きなトラック。
ああ、これは知ってる。免許の更新の時によく見るやつだ。
そしてボールを追いかけて子供が飛び出してきた。
なんとベタな展開であろうか。
そうして私は子どもを庇い、トラックに轢かれた。
瞬間的に兄や両親の顔が浮かんだが、叩きつけられた衝撃で全部口から出た。
残ったのはまばらな思考。
固い地面にバウンドしながら、私は今夜見れるはずだった流星群を思い、冷蔵庫にある刺身の漬けを思い、机の上にある原稿を思った。あと少しの、完成間近の。締め切りは来月だった。
横になった視界の向こうで母親らしき女性が叫び、子どもを抱きしめている。
その手には絵本があった。
2匹の齧歯類がさまざまな冒険をする絵本だった。
私が最初に心奪われ、どこに行くにも持ち運び、親に怒られたあの絵本だ。ズタボロで、今も部屋のどこかにあるあの絵本。
私は徐々にぼやけていく視界の中で子供の顔を見、また女性の持った絵本を見た。
口から生温かい命が漏れ出していく。
まあ、いいか。
救急車のサイレンの音がだんだんと遠くなる。
ああ、この体験もいつかネタに使えるなぁ。
血だらけでにんまりと笑う女を、子どもは怯えた目で見下ろしていた。