# | 題名 | 作者 | 文字数 |
---|---|---|---|
1 | 補助輪 | なこのたいばん | 289 |
2 | すき | テックスロー | 954 |
3 | 忘れ物代行屋 | 大町はな | 991 |
4 | 終わらない路線 | ここふぇ | 464 |
5 | うちの猫は最近メシを食わない | 朝野十字 | 1000 |
6 | 国王になる日 | わがまま娘 | 997 |
7 | スペース・スペース・スペース | 千春 | 1000 |
8 | まぼろし | 糸井翼 | 1000 |
9 | 君と缶 | ウワノソラ。 | 1000 |
10 | 切断 | たなかなつみ | 996 |
11 | 猫の生徒 | euReka | 1000 |
12 | 天の神様 | kyoko | 999 |
13 | ほしのふるさと | 志菩龍彦 | 998 |
「洋介さん見て見て」
娘が公園を自転車で走っている。世間一般ではこの年で自転車の練習なんて遅いのだろうか。補助輪のついたそれを買ったのは2日前、娘として初めてのお願い。断る理由もなかった。
父親としての自覚もないまま7つの娘と2人きりの公園。周りが不審者を見るような視線を俺に送る。
進んでは振り返る娘の笑顔は生前の妻によく似ていた。
補助輪を外して後ろから押してやる。
「絶対に離さないでね。」
いたずらごころで両手を離す。気付かない娘はフラフラと前進し小さくなっていく。
「離すもんか。」
心の中で呟く。
俺はまだあの子の補助輪。
不審者を見るような視線はそこになかった。
宇宙はシンプルだから好きだ。大きいから好きだ。終わらないから好きだ。始まらないから好きだ。だから僕がたとえ無に帰したとして、それでいい。宇宙に限界がないから、僕はそれに合わせるように自分をできるだけ引き延ばして、そうやって毎日眠りについていた。でも。五感も、想像も、届かないその向こうに大きな壁があるということには前々から気付いていた。銀河のにおいや、惑星の手触りを超えて、ただひたすら自分の想像をとがらせて行くと、五感が一つになっていく。嗅覚と味覚はすぐに区別がつかなくなって、そこにぼやけた触覚が乗っかる。突き進むとその旋律を聴覚でも感じるようになって、最後は視覚の速さで僕は押されて光になる。そうやって宇宙の果てを想像の光で突き進む僕に立ちはだかる柔らかい壁、それが彼女の唇で、今僕は光になってその壁に口づけをする、僕の光の先っぽで。
薄情そうな青い傘の下、カラスが濡れるのを見ていた彼女の薄い唇。白い顔にごく自然に膨らんだその唇。僕の宇宙のその先。僕の光が届かないその先にあるその唇。僕の宇宙に立ちはだかる壁。桃の薄皮のような唇を中から押す弾力と体温、に、くちづける。いのち。彼女の宇宙。束ねられていたのにあっけなくばらばらになる五感と、アンバランスなそのレーダーチャート。視覚4触覚10嗅覚8味覚6聴覚3。彼女の唇から形作られる僕の実体。彼女の唇の動きによってかろうじて人間の形をとどめている僕は泥人形だ。
ああ、僕は今、本当の意味で無に帰すということがどういうことか知っている。有を知ってしまったから僕は本当に無になることの恐ろしさを知っている。彼女は僕の女媧だ。僕は想像する。彼女の唇を、腕を、手を、指を。その手で泥の僕を捏ねてくれ、僕をもっと高みに導いてくれ。ああだめだ。僕の宇宙は彼女の宇宙に完全に包囲されている。意識の矢はことごとく彼女の壁にはじき返され、だからもっともっとその向こうへ行きたい。
どちらからともなく唇を離して、でも僕はその少しグロスの剥がれた唇から目が離せない。その唇が糸で引かれるように弧を描き、切れ目から白い歯が覗き、唇がすぼんで、また口角が弧を描いて。
僕はその壁の柔らかさと、その奥の命の温度を知っている。生きている。生かされている。生きている。
なに、簡単なことですよ。あたしたちは身体が無いでしょう。だからそのぶん、勘が鋭くなるんです。
ええ、未来の予言だなんて、そんな大それたことはできやしません。ただちょっとばかし、見える世界が広いだけでね。
そもそも、生きてる人ってのはどうしてこう、注意力が散漫になるんでしょうね。
きっと生きることに夢中で、周りがとんと見えなくなっちゃうんでしょう。
あたしたちはもう、生きる必要が無いからね。忘れることが無いんです。
この仕事もね、最初は親切心から始めたんですよ。あの人たちが見えていないところを、あたしたちが手助けするんです。
もちろん、貰うものはきちんと貰ってますよ。半端に甘やかしたせいでしょうか、やることがうんと増えちまいましたから。
でもまあ、おかげさまであたしたち、大盛況ですよ。そのせいで担当がすぐに変わっちゃうんだけども、これが結構しんどいんです。
忘れ物の癖って人それぞれでしょう。それがコロコロ変わるんじゃあ、こっちも気疲れしますよ。
くれぐれも言いますけど、あたしたち、超能力なんてありませんからね。
けどね、やっぱり世界ってのは綺麗なもんです。ずうっと見ていたくなりますよ、終わりの方までね。
あたしたちだって、長く居られるわけじゃないんです。時間がくれば湯気みたいにね、消えちまいます。
だから、お給料としてちょっとね、寿命を頂戴しているんです。お金なんてのはあたしたち、とっても使えませんから。
ええ、こちらもあちらも、時間を伸ばす方法はおんなじです。もっとも、あの人たちは気付いてないみたいですけどね。
「自分には守護霊が憑いてるんだ」なんて吹聴して、いい気なもんです。そんな好いものが憑いていればいいんですがね。
しかし、驚きました。霊媒師の方って、本当に見えちゃうんですね。ふふふ。あたしもついに、ばれちゃった。
でもね、この人の身体が悪いのは、自業自得ってもんですよ。気を張ることもせずに無駄遣いしちゃって、さすがにあたしも、面倒見きれませんって。
まあ出来ないことを補う者同士、仲良くしようじゃありませんか。あなたもお給料、貰ってるんでしょう。いい商売ですよね。お互いに。
あなたも気を付けて下さいね。あたしたちみたいなの、そこらにいっぱいいますから。
生きることに気をとられて寿命を疎かにしちゃあいけませんよ。
なんだかんだ言って、自分の身を守れるのは、自分しかいないんですからね。
_______「どこ行こう。」
2人の会話はまなかの一言で始まった。
今、早朝の東京駅にいるのだがどこにいきたいのかが不明瞭なまま来てしまった。
「とりあえず、山手線で浜松町でない?」とゆうかは提案した。
「そうだねゆうか。山手線ホーム、行こうか」
手を取り合って向かった4番線ホーム。
足を踏み入れた途端、うぐいす色の車両が目に飛び込んできた。たまたまホームドアが開いたので2人は乗った。
辺りを見回したところ私たち以外に誰もいない。車内は薄暗く、モニターも付いていない。しかし2人を乗せたままこの車両は動き出した。
アナウンスもないまま走り続ける。
「ねえ、まなか大丈夫これ?」
と、ゆうかの声が響き渡るが何も音がしない。まなかは恐怖のあまり石像かのように固まってしまっているのだ。
恐怖に怯えるゆうかを差し置いて、車両は動き続ける。まるで止まる事を知らない車のように走り続けていた。最後に彼女の視界に映ったのは終わりの見えないトンネルであった。
________「昨日未明、埼玉県上尾市の線路内で正体不明の車両と少女2人の遺体が発見されました。」
車を走らせていると、警官に呼び止められ取調室に連れて行かれた。
「この書類を覚えてますか。奥さんが届けてくれた」
「妻は死んだ」
「いいえ。生きてますよ」
「…………」
「あなたは長い間特殊な薬物を摂取してきた。あなたが本当にそう思っているのか、今後も私たちは注意深く見ていきますよ」
私はすぐに解放された。
確かに私は妻を殺したのに。別居後、妻の梓萱が暮らしていたマンションに行けば事実がはっきりする。
私は妻のマンションに乗り付けた。今夜はとても冷える。かじかむ手で妻の部屋のドアを開けた。
妻は湯気立つ蛋花汤を食べいていた。
「おまえは在中国日本領事館から機密情報を盗んだ」
「あなたが盗んだのよ。そして私が工作部に届けた。もう心配ない」
「ありえない。おれは領事館に出向した日本の自衛官だ」
「私の夫は中国人よ」
何もかも怪しかった。なぜ「あなたは中国人だ」と言わないのか。それに、こんなに寒い夜になぜ私に蛋花汤を勧めないのか。
かかかりつけの精神科医から電話が入った。私は妻のマンションを出た。
「君はずっと黙秘した。やむなく当局は薬剤を投与し自白させた。その影響で君は事実を忘れたり取り違えたりするようになった」
「私は決して国を裏切らない。なぜ取調べを受ける」
「君は両国間のWスパイだった」
私が日本人でも中国人でも、中国工作部が私を拷問することはある。
「私は妻を殺した」
「そう思い込んでいるだけだ。さっき会って話しただろう」
なぜこいつがついさっきの私の行動を知っているのか。本当に医者なのか。
「新しい薬を取り寄せた。今よりずっと気分がよくなるはずだ。今後は必ずこれを服用してくれ」
私は医院を出て再び車に乗り込んだ。妻は機密を盗み敵国に手渡した。激しい怒りが込み上げてきた。妻を殺したと思ったのに。だがこれで終わりじゃない。彼女を殺すまでおれは何度でもやる。おれは日本人か中国人だ。ここは上海か東京だ。私はふと膝の上に飼猫が乗った感触を感じた。そうだ、猫に餌をやらなきゃ。この前餌をやったのはいつだったか。どうしても思い出せなかった。愛猫は老衰のため死んだ。だがこの感触は現実だ。
「あと少し待ってくれ。用事を済ませたら家に帰って食事にしよう」
車から見る景色に中国語の看板が目立つ。最近の東京には中国語が多すぎる。
私は妻の住む世田谷だと思う方向に向けアクセルを踏み込んだ。
「へ〜か〜」
書類を持って執務室の扉を開けたら、そこには誰もいなかった。一瞬状況が把握できず時間が止まる。大きな溜息が漏れた。またやられた……。
どうしてこうも上手く逃げられてしまうのだろう?
ローテーブルに置かれた書類は一応全部処理はされているようだ。
遠くからバタバタと廊下を走る音がする。
「申し訳ありません!!」肩で息をしている男が、開け放たれた扉の前で膝をついて頭を下げた。
「ホント、うちの王様は困ったもんだよね」
どこに行こうが構わないんだけど、国王がひとりで出歩かないで欲しい。
この国は、第一王子が国王になる。どこもそうなのだろうが、特に大きな疫病とかが流行らない限り、戦で亡くなるとかないので、何の疑問もなく第一王子が国王になるのだ。それが、ある日突然、全然国王になる気がない第六王子に、国王の座が降って来きた。あまりに唐突な出来事だったので、気持ちが追い付いていないのは見てわかった。
国王になってから、彼は一度も王様が座る場所に座ったことがないし、身に着けるものも身につけたこともない。
国王がそんな理由で執務室の絨毯の上で仕事しているとは誰も思っていないだろう。
彼曰く、玉座にも王冠にも鎮座している「太陽の石」が嫌いなのだそうだ。
自分は国民の太陽にはなれない、そんな器ではないと、ずっと拒みながらそれでもこの国の国王として何とか事務処理はやっている。
だから、好意を寄せる女のもとに行くことは咎めたりしていなかった。
行きたいと言ってくれれば、ちゃんと準備するのに、なぜ勝手に出て行ってしまうのか。
単にこちらを困らせたいだけなんだろうけど。
「もう暫くしたら迎えに行きましょうか」
準備をお願いします、と頭を下げている男に言うと「承知いたしました」と走り去っていった。その背中がなぜかちょっと楽しそうだ。
第六王子にずっと仕えてきた。彼が国王になってから、城の中の雰囲気が変わった。もちろん、人も代替わりなどしているのだが、以前はもっとピリピリしていたのだ。それが今はなんだか楽しそうだ。
困った王様が城外をひとりで歩けるのも、彼の人望なのだろう。城下の者に愛されて、守られている。
国民は彼を国王として受け入れている。「太陽の石」を持つものに相応しいと思っている。
あとは彼自身の問題だった。
彼があの玉座に座り、あの王冠をかぶって国民の前に現れる日を、彼が本当の国王になる日を、誰しもが待ち望んでいる。
3人は毎日同じ時間に同じチャットルームに集まっては、身の回りの出来事や恋の話なんかをしていた。1人はこの物語の主人公サキ、もう1人はマイ、そして空だ。
ある日の恋バナ。マイが「毎日会うのはちょっとね」と言うと「週3でいいよな」と空が続く。サキが「えー!毎日会いたいよ!」と言っても、マイも空も「毎日はねぇ」「毎日はなぁ」と首を傾げる。恋愛の話になると決まってマイと空はタッグを組んだ。それがいつものパターンだ。
サキは、空がマイに好意があると勘ぐっていた。サキは空が気になっていたが、マイへの気持ちがあるならと友人関係を続けることを決めていた。
しかし、そんな遊びもいつの日か減って、3人が顔を合わせることは無くなっていった。
10年後。
27才になったサキはふと人恋しくなりチャットルームを探したが、その類のほとんどが無くなってしまっていることに気がついた。寂しさを感じながらやっと見つけた場所は、サキのように行き場を無くした人たちが懐かしむように歓談していた。サキはその中の一つの部屋に「りん」という名前で入り、そこにいた女の子としばらく2人で話していた。
すると、部屋に誰かが入ってきた。
「空」だ。
サキは一瞬、あの「空」であることを期待したが、過ぎた年月とありがちなその名前に、そんなわけがないと自分の思いを打ち消した。
一通り挨拶を済ませ、サキはふと懐かしむように打ち明けた。
「前にこういうサイトで空って名前の男の子に会ったよ。あと一人女の子がいて3人で仲が良かったんだけど、たぶん空はその子が好きだったんだと思う。私は空が好きだったな」
すると、その「空」は「私は女だしね」と言った。そうだよね、とサキは寂しい気持ちになった。「空」はこう続けた。
「私も昔チャットルームで好きな人がいたの。自分の意見を持っている人で、同調すればいいのにって場面でもいつも曲げずに自分の意見をはっきりと言ってた。すごくかっこよかったのよ」
サキはその物言いに違和感を感じた。
これって私?空が言ってるみたい…あの空だ!
嬉しさと驚きでサキは胸がいっぱいになった。空は続けた。
「今は私も別の人と結婚しちゃったけどね。今日は洗濯物がよく乾いたな♪」
大げさな小芝居にサキは画面の前で吹き出した。
なるほど、結婚ね。
「今日は純粋な気持ちが取り戻せた気がするよ」
空はその場を去っていった。
何も残らない筈の空間には確かに2人の想いが刻まれていた。
「子育てアプリ『まぼろし』が配信中止となりました。子育てにアプリを使うことで、親と接する時間が減った結果、感情がうまく表せない子が増えていると問題視されており…」両親の勤める会社のアプリのニュースが流れていた。
小さい頃、両親はともに研究者だったので、家では私は一人だった。そんな私に贈られたのが一台のタブレットだった。タブレットには開発中のアプリ「まぼろし」が内蔵されていた。私みたいな共働きの子供が寂しくないように作られた、お話ができるアプリだ。
私は小学生の頃は帰宅すると、必ずタブレットを開いてそのアプリと話した。
「なーちゃん、今日はどんなことがあった?私に話してください。」
「まぼろし、志村がさあ…」
楽しいことも、悲しいことも、悩みも、両親には話せないようなこともまぼろしに話した。まぼろしは私の話を全て学習して、私に寄り添ってくれた。
そんな私も親離れ、というかまぼろし離れの時期が訪れた。中学の頃からアプリを起動する頻度は減り、高校になると部活や友達付き合いが忙しくなって、家に帰ると疲れて寝るだけになっていった。大学は地方に通うことになり、引っ越すことになった。そのときに新しいノートパソコンを買ったので、タブレットは実家で眠ることになった。
実家に帰るのは大学一年生の正月以来。両親は共に忙しいし、会って話すこともないのであえて戻ることもなかった。私が久しぶりに帰ってきても、アプリの配信中止とそのマスコミ対応もあるのか、両親は夜も含めてほとんど家にいなかった。
私の部屋にほこりをかぶったタブレットが残っていた。試しに充電してみた。何年も起動していない…
電源ボタンを長押しすると、動いた。
まぼろしを起動した。
「なーちゃん」
懐かしい。その呼び方をする知り合いはもういない。
「今日はどんなことがあった?私に話してください。」
久しぶりに起動するのに、そんなことは関係なく優しく声をかけてくれる。小学校の頃、私はまぼろしに救われた。いろいろな気持ちを教えてくれたのは、まぼろしだ。
「まぼろし、久しぶりだね。」思わず言った。
「久しぶりですね。2953日ぶりですね。」2953日。8年以上、ずっと変わらず、待っていてくれたのかな。
「今、私、大学院に通っていてね…」
今の研究のこと、大学で恋人に出会ったこと、家の近くの温泉のこと…私がいろいろ話すのを、適度に相づちをしながらまぼろしは優しく聞いてくれた。
こじんまりとした少々くたびれた駅が琴海の最寄駅だった。
遅刻魔の琴海だったが今日は早々と駅に着き、緩やかな階段を足取り軽く上がっていた。待ち合わせ先では大抵小走りで息を切らしている彼女だったが、珍しく落ち着き払っていることに晴々となる。
待合所の薄っぺらな座布団の上に座って美希を待った。プリペイド式携帯を確認するも連絡はない。人を待つのに慣れなくて、どう時間を潰したらいいんだろうと琴海は思った。
ふいに、美希と二人だけで街へ出掛けるのは初めてかもしれないなぁと考える。美希とは小学高学年からの付き合いだったが、特に仲良くなったのは去年くらいだ。琴海は去年からこの携帯を持っていたが、中学生というのもあり友達で携帯を持っているのは美希だけしかいなかった。プリペイド式携帯なのでメールはショートメールしか送れなかったが、短いたわいもないやり取りを重ねるうちに二人は親しくなっていった。
小石と靴が擦れる音に気がついて階段の方を向くと、美希が「よっ」と手を上げていた。おぅ、と琴海も機嫌よく応じる。
「今日は早いんやね。寝坊せんかったん?」
琴海の隣に腰を落として彼女が揶揄う。
「学校なんかより全然遅いから余裕やし」
「偉いやんっ」
「まーあねぇ」
得意げな笑みを浮かべて琴海は身を乗り出した。
「そういや今日、寒ない?」
琴海を見つめる彼女の頬は赤らんでいて、白く透ける肌に浮いて目立っていた。
「ちょっと寒いね。また去年みたく肉まん食べたくなるよ」
わざとらしく肩をすくめてみせながら、言われてみればこのところ秋も深まってきて風がひんやりしていると思った。
「肉まん食べたいって、しつこいくらいうちまで押しかけに来たよね」
「ああいうしょうもないことすんの楽しいから好きなんよ」
困ったように美希は笑って、はいはい。と軽くあしらってから「なあなあ、寒いから飲み物買ったんよ。いる?」と聞いた。そのまま鞄を開いて、ごそごそとミルクティーとカフェオレの缶を手に取って、琴海に見せる。
「どっちでも好きなん取り?」
「ええのん? じゃ、私はミルクティーでっ」
「だろうと思ったよ」
「あはっ、相思相愛って奴?」
「何が相思相愛じゃ。君が分かりやすいだけやろ」
そうかなぁ? と小首を傾げつつ、美希から手渡された缶を両手で受け取った。缶の温もりに心がほころんでいくのを感じながら、琴美はしげしげとミルクティーの缶を見つめていた。
いつもと同じ道をいつもと同じように歩いていたつもりだったが、見慣れない一画が目に入り、足を止めた。どこにでもあるような駐車場に見えるが、何かの建物があったところのはずだというぼんやりとした印象が視覚に障る。けれども、具体的に何があったのかは皆目思い出せない。
網膜を刺すような過去の印象が脳髄を突くような不快さを感じさせる。気持ち悪いのでバックアップを確かめようと左のこめかみを探り、視覚を切り替える。
バックアップはない。完全に上書きされている。つまり、以前の情報は今の私にはもう必要がない。少なくとも、そう判断された。そういうことだ。
私たちはいま、とてもわかりやすい世界に暮らしている。私たちの五感に入る情報は完全に管理されている。自身の理解の及ぶ範疇、自身の想像の及ぶ範疇、現在の自分にとって害にならないもの、それらだけが情報として私たちに与えられる。そして、私たちが新たに見聞きし、新たに知識として蓄え、世界の一部として認知しうるようになったもの、それらがすべてリアルタイムで精査され、取得できる世界の情報が刻一刻と変わっていく。
けれども、通常、それはもっとなだらかなものだ。視覚刺激にこんなに障るような大きな変化など、感じたことがない。バックアップが完全に消されたのも初めてだ。
がたが来ているのは、私の肉体か、それとも処理すべき情報量が多すぎて、神経が摩耗したとでもいうのか。
神経。誰の。
私たちは完全に管理されている。もしも私の肉体が使いものにならなくなったというのであれば、すぐにでも回収され、新しい肉体に移行させられることだろう。けれども、それを促すようなサインは何ひとつない。認知できない。
静かだ。静かすぎるほどに。
真っ暗闇のなかにいるかのように、自分の歩いている道があやふやだ。何度も繰り返し歩いてきた道だ。ただ真っ直ぐ歩くだけで帰宅できるはずの道だ。
帰れない。
ここはどこだと考えてみるけれども、それを示すサインが何ひとつ出てこない。視界に広がる空間には矢印ひとつなく、音声ガイドも沈黙したままだ。
ここはどこだ。
突然世界から切り離された私は、ただ立っているだけのことができず、平衡感覚を失い転んでしまう。助けを呼びたくても、言葉を紡ぐことすらできない。
何もない空間にひとりきりで、見えない世界に視線を向けたまま、自身の境界がどこであるのかすら、もう
クラスの三分の一の生徒が猫になってしまった。
しかし、二週間もすれば元の人間に戻るという話だったので、学校側もそこまで深刻な事態とは受け止めていなかった。
「猫の姿をしていても彼らは人間です」と担任は、朝のホームルームで言った。「なので、いきなり頭を撫でたり、抱きしめたりしてはいけません」
すると、窓際の席に座っている女生徒が手を挙げた。
「じゃあ、猫のほうから近寄ってきても触っちゃだめですか?」
「いえ、彼らは猫じゃなくて人間だと考えて下さい」
「でも、どう見ても猫だし……」
結局、猫になった生徒のほうから近寄ってきた場合に限り、軽く触れてもよい、と職員会議で決定したのだが、中には思わず抱きしめてしまう生徒もいた。
「だって、コミュニケーションのやり方は人それぞれでしょ?」
窓際の女生徒は、男子生徒がサッカーで遊んでいるグラウンドを眺めながら言った。
「彼らは元人間だけど、今は猫。少なくとも、喉をぐるぐる鳴らしているときは、誰かに甘えたいサインなんじゃないの?」
教室が一瞬静かになったところで、別の女生徒が手を挙げた。
「それは、単なる猫好きの人の意見です。最も尊重すべきなのは、彼らが人間だということであり、彼らが人間に戻ったときに、元通りの関係で居られるようにすることではないでしょうか?」
窓際の女生徒は、視線を外から教室の中に戻し、腕を組みながら言葉を考えた。
「二週間だけと言っても、その人は一度猫になってしまったのだから、そこから新しい関係を始めるしかないし、完全に元通りというわけにはいかないでしょ?」
二週間後、猫になった生徒たちは、不意に人間に戻ったり、戻らなかったりした。
人間に戻った生徒の中には、何事もなかったように振舞う人もいれば、猫の時に関係を深めた相手と、友人や恋人同士になる人もいた。
一方で、人間に戻らなかった生徒は、薬物や血清による治療のために専用の施設へ送られてしまったが、半年もすれば元の人間に戻るという。
ただし猫になった人間のうち、一万人に一人は人間に戻れないというデータもある。
「もしずっと猫のままでも、私たちは友達だからね」とある女生徒は、施設送りになる猫の生徒に言った。
猫の生徒は、ぐるぐると喉を鳴らして、女生徒の足に何度も体を擦りつける。
窓際の女生徒は、三日前に頭に生えてきた猫耳を無意識に動かしながら、手の肉球をぺろぺろと舐めて顔を拭いた。
今日も今日とて境内にはうじゃうじゃと人がいた。
儂は屋根の上に腰を下ろすとすん、と見下ろす。
今日はなんだ、祭りだっけな。たしか年に一度の。そーだったそーだった。
ぽりぽりと頭をかきながら空を見上げると、天照大神のいる方向が明るい。
そういうことか。だから今日はひときわ人々との距離が近い。願い事の声もよく聞こえる。
賽銭箱の前に人々は行列を作り、がらがらと鈴を振ってはパンパンと柏手を打ち願い事を唱えている。
「こう、いっぺんに言われたらよくわからんな」
ぼそぼそとした願い事の声はとぐろを巻いていた。そのひとつひとつを聞き分けるのはなかなか困難なことだ。
まあでも、この賽銭で少々傷んできたこの社もそろそろ立て直しの話が出てくるだろう。
「ありがとさん」
儂は風を吹かせ、ざわざわと木を揺らした。
はっとしたように何人かが顔を上げる。
そう、境内でのちょっとしたことはだいたい、儂。
その人々の肩や目元にある黒いもやを、その風で吹き飛ばしてやる。
それは穢れのようなもの。不安や冷え、痛みなどをもたらすそれ。
悪鬼がくっつけたり、自らの心が引き寄せるそれを、ぱっぱっと払ってやると気づいた敏感な何人かは目を見開いたり自らの肩に触れたりしている。
「願いは自ら叶えよ。その手助けはしてやる」
こういう、ほんの少しのことだけれど。
そのとき、キャンキャンと小さな犬の鳴き声がした。
みると車椅子に乗った青年が膝の上に小型犬を乗せて賽銭箱の前に並んでいる。
「おいおい、境内はペット禁止だぞ」
儂はちょっとむくれる。
だが、犬は青年の膝から降りようとせず、時々鳴きながら青年の顔を舐めるだけだった。
青年が賽銭箱の前に来て、ふわりと札を投げ入れた。
「おっ」
高額賽銭きた。聞くだけ聞いてやろうじゃないか。
耳を澄ませると少し高い青年の声が聞こえた。
「俺がいなくなった後、こいつに良い飼い主が現れますように」
みると、犬には老犬用のおむつが巻いてあった。青年には胸に黒いもやが見える。病に冒されているのだとわかった。風を吹かせたくらいじゃ到底払えないものだ。
ふと青年の斜め後ろ、幼女がじっとその背中を見ていた。青年の肩の上から顔を覗かせる犬が、幼女に向かってキャン、と小さく鳴いた。
儂は青年の足下の石をちょちょいと動かした。突然止まった車椅子に青年が焦ってあちこち見回している。
幼女はそばにいた両親の顔を見上げるとうなずいてもらい、そっと青年に近づいた。
天文観測官の私がその集落に辿り着いたのは、宵の明星が瞬き始めた頃だった。
人を寄せ付けぬ山奥に十数年に一度流星が落ちる湖がある――そんな噂の湖の近くに、その奇妙な集落は存在していた。
点在する荒屋に住む住民達を見て、その異様さに驚かされた。
病的に青白い肌、虹色に輝く瞳、胴体に比べてやけに長い手足と赤銅色の金属質な髪。
何より不気味なのは、老若かかわらず、誰もが似た顔立ちをしていることだった。
そして、何故かその集落には女人しかおらず、一人の男の姿もなかった。
集落の鬼門に位置する遺跡じみた鳥居の先に、巨大な鏡を思わせる湖があった。噂に聞いた湖である。
到着から三日後、遂にその日がやって来た。
湖の周りには、集落全ての人間が集まっていた。老いも若きも一様に興奮している様子である。
ふと、明らかに他と装いの違う者達がいることに気づいた。白い服を着た少女達と、緋色の衣を纏った女達だ。
その意味を尋ねようとした時、目映いばかりの白い閃光が天を覆い、耳を聾する轟音が空から降ってきた。空気が激しく振動し、顔を上げると、眼前に既に流星が迫っていた。
激突すると思った刹那、流星は急激に減速し、ついには青紫の光を放ちながら湖面に、とぷん、と着水したのだった。
その直後、緋色の女達がしずしずと湖に入り泳ぎ始めたのだが、その姿が、フッ、フッ、と突然消えていった。まるで蝋燭の火を吹き消すように。
それに続き、白い服の少女達が緊張した面持ちで湖に入ったが、先程と同様に黄昏の湖に消えていった。
周囲の者達はその光景を真剣な眼差しで見つめていた。その瞳に、どこか恍惚とした光が宿っているように見えたのは気のせいだろうか。
やがて、少女達は湖面に浮かび上がり、陸まで戻ってきた。
彼女達は一様に朦朧とした様子で、誰もが自身の下腹部に手を当てていた。
結局、緋色の衣の女達は一人として戻ってこなかった。
その時、水面が急に泡立ち始め、凄まじい高さの水柱が立ち上がった。
青紫の閃光を放ちながら、何かが水中から飛び立ったのだ。
轟音を響かせ、ソレは星辰の輝く宙へと還っていった。
住民達が悲鳴にも似た歓声をあげる中、その光景を呆然と見つめる少女達を横目に、私は慄然として悟った。
何故、この集落に女しかいないのか。
何故、彼女達の顔が似通っているのか。
全ては、あの流星のせいだったのだ。
あの〈父親〉の。