第217期全作品一覧

# 題名 作者 文字数
1 短い弔い 大町はな 985
2 多数決 めちゃつよ 945
3 夢ぐらい見させて かき太 806
4 怖い…… テックスロー 987
5 コーヒーとミルク 千春 918
6 オパール わがまま娘 997
7 マスク 糸井翼 1000
8 痣食 志菩龍彦 999
9 少年少女物語 euReka 1000
10 パーフェクト・ジジイ 伊吹ようめい 992
11 言葉盗人 たなかなつみ 1000

#1

短い弔い

どうすることもできなかった。
ガツン、と強い衝撃が走って、目の前が真っ白になって、それからのことは何も覚えていない。ただ遠のいてゆく意識の中で、誰かがぽつりと、「事故にあったんだね、可哀想に」と呟くのが聞こえた。
ふうっと景色に色が戻って気が付くと、目の前に先輩が立っていた。なんだかとても悲しそうな顔。私のことなど見えていないのか、遠くをじっと眺めている。
「よく頑張ったね」
先輩はそう言って、私の手を握った。彼女の手は暖かくて、じんわりと伝わる熱のおかげで、自分の手が凍ったようにつめたいことを知る。いや、手のひらだけじゃない。まるで氷漬けになってしまったみたいに、全身がキンと冷えていた。
「ごめんね。あなたとはもう、お別れしなくちゃいけないの」
先輩は視線を外したまま、自分自身に言い聞かせるように呟いて、握る手にぎゅっと力を込めた。
ああ、私は死んでしまったのか。
熱の通わない脳内までぬくもりが染み込んできて、私はようやく、自分の状況を理解した。突然の死。それならば、今見ているこの世界は一体何なんだろう。
「あなたは何も悪くないのよ。不運な事故に巻き込まれて、死んでしまった。ただ、それだけなの」
指先に、手のひらに、熱がじわじわと蘇っていく。先輩の感触がする。確かに触れている、暖かい熱の塊。
「明日からは通信販売の受電業務をお願いするわ。気持ちを切り替えて、頑張りましょうね」
そうして先輩から、「鈴木理香」と書かれた新しいネームカードを渡された。

通り魔のようなクレームは、コールセンターにとって日常茶飯事。顔が見えないのをいいことに、好き勝手に暴言を吐くお客様はとても多く、あまりに酷いクレームを受けると、強いショックのせいで立ち直れなくなることもある。だから私たちは源氏名を使う。怒りの矛先が自分自身に向いていると誤解して、理不尽に傷つかないように。
「お電話ありがとうございます。フェリースネット注文受付センター、鈴木でございます」
受話器の向こうで声がする。顔も知らない誰かの声。そこで確かに生きている、生身の声。呼応するのは、仮面をかぶった私たち。たくさんの鎧をまとって、懸命にロボットのふりをする人間だ。
誰でもない誰かになって、オペレーターを演じながら、私は自分の感情に蓋をする。喪に服している暇はない。ただ流れ作業のように、何度目かの人生を生きるだけなのだから――


#2

多数決

 ―裁判―
ある国の裁判所で、裁判官たちがある被告人の量刑について眉間にしわを寄せ話し合っている。

「被告人司馬佐紀の刑はどうしようか」
「司馬は残虐な行為によって一人殺してるけど、それでも一人殺したからといって、死刑は行き過ぎだろ…」
「でも残虐性があっても死刑じゃなかったら、大衆はどう反応するかな。」
「確かに。」
裁判官たちは閉口した。いつもは被害の大きさや動機、犯行の様態、前科などさまざまな要素を踏まえて量刑を決めていたが、最近は世間の目が厳しい。我が国の裁判は閉鎖的である。そのためか、実態を把握しづらい国民は論拠なしに裁判所に感情を求める。
あんな残酷な奴が死刑じゃないの?この国の司法は腐ってる。
裁判官の家族がこんなむごいことされたら裁判官も死刑にするでしょ。
こんな罵声、ネットでは日常茶飯事だ。反論しても無駄だろう。
それでも、司法の信用がなくなるのは本望でない。

話し合いから2時間後
ある裁判官が口を開いた。
「じゃあ、直接聞いてみるか。」
他の裁判官たちは唖然としていた。
「どうやって?」
「調査でも何でもやればいいだろ。」
「わかった。」
裁判官たちは、重い腰を上げ裁判所をあとにした。


一か月後
「よし、集まってくれてありがとう。被告人司馬佐紀の刑についての調査をして、結果が出たよ。」
「どうだった?」
神妙な顔で恐る恐る尋ねた。
「死刑」
顔がほころんだ。
「じゃ、じゃあ死刑でいいか。」


数年後
「窃盗で捕まった大司(おおし)翼の刑はどうしようか。」
「大司は窃盗の常習犯で、捕まったのはこれで20回目だぞ!」
「しかも、こいつは貧困層をターゲットにしている。被害者の中には、大司の窃盗で金がなくなって心中した一家もあるみたいだぞ。」
「まじか。だが、さすがに死刑はないだろ?」
「うーん。でも死刑じゃなかったら、大衆はどんな反応するかな。」
「よし。聞いてみるか」
「またか」
以前の裁判とは違い、淡々と話し合いが進められていった。


一か月後
「よし。被告人大司翼は死刑だ。」
「おーけー」

一年後
裁判は円滑になっており、刑事裁判だけでも一日30件はこなしていた。
「被告人、田井司は横領だったな。」
「うん」
「こいつはやり方が汚い。感情論で死刑だな。」
「うん。国民も納得するだろう。」
「よし、死刑。」
決め方に抵抗はなかった。


#3

夢ぐらい見させて

「どうしていつも私は寂しい、なんでだよ、どうしてだよ
いつもいつも周りは薄い、裏切る、いい駒だ
私は愛がほしい、僕は絆がほしい、ほしいほしい
全部ほしい。いやだいやだ二度といやだ
私は私を愛して命をかけても守りたいと思える絆を作って
もちろん君に命の危険があれば私の身をかけて守ろう
臓器が悪くなっても私は喜んでどこでも心臓さえもあげよう
君が永遠に、、、永遠に、、私を考えてくれるなら
私のすべての財力で君に捧げよう
君にかならず私の返信に答えたり24時間の電話を強制したりしない
友情関係も自由にするといい、
彼らが君のことを本当に友人だと思ってるかは別としてね
異性とも交流するといい、別に気にしないさ。仮にその異性が君に下心を持っていても所詮は薄っぺらいものだ気にしなくていいよ
記憶することが苦手な私も君のことはすべてを覚えよう
君も私のことを覚える必要はないが本当の絆はすべてを知ってこそだ
弱いところも脆いところもお互いで支えよう
ただし噓も裏切りも絶対に許されない、許さない、、まさかね
大丈夫だ私が君を裏切る事はない
すべてを君にささげよう
永遠に家族だ、生きていても死んでいても
絶対だ、絶対にだ、なにがあってもだ
人肌は温かいものだ、それを感じよう
どんなに離れても一緒だ、いやだ、離れないで
ずっと一緒だ、お互いでハグをしよう
もちろん喧嘩だってしよう、それはお互いを深くする行為なのだから
僕たちは冗談だって言い合える!
世界のみんなが君を悪く言っても私が守るよその覚悟がある
君も僕を守ってほしい、ずっと一緒にいるんだ
永遠に永遠に永遠に
ずっとずっとずっと
一緒に冒険をしよう
僕の最後は君を守って死にたい
僕に愛を絆をすべてを教えて、これ以上涙の味を私に、、
与えないで、、、」

私はシャワーを浴びながら返事をしないありえない妄想に
救いを求める。どうせ世界は汚いのだから
狂っていることは知っている
永遠なんて、、夢を見てもいいじゃないか


#4

怖い……

 定刻通り午前九時に役員会は開かれた。決議事項をざっと見ながら今回も特に波乱を呼びそうな議案はないなと、副社長の長岡は安堵のため息を漏らし、ただ、社の発展を考えると、あまり波風立たないのも問題だが、と、長岡はもう一度ため息を、今度は少し強めに漏らした。
 国内営業担当役員の吉田が持ち込んだ決議事項で、一波乱あった。案件自体は極めて単純なもの、すなわち、国内すべての支店、営業所に環境改善のために観葉植物を配備するというものだった。そんなことしてないで一台でも売れと出席者の誰もが思ったに違いないが、何の意見も上がらず、議長の「では、当議案に賛成の方は、挙手を」と決議に進んだ。これが最後の議題だったということもあり、長岡は片方の手で賛成の意を示しながら、手元の書類を片付け、議長の「それでは役員会を閉会いたします」の言葉を待っていた。
 ところがその言葉はいつまでも聞こえなかった。挙手の右手はそのままに議長を見ると、議長は怯えたような目で社長を見つめていた。社長は下を向き、怖い……とつぶやいていた。怖い? 長岡は議題書にもう一度目を通したが、財務的なインパクトも無視できるレベルで、怖さとは無縁だった。長岡が声をかけようと口を開いたとき、社長の口からはっきりと言葉が放たれた。
「エコはいい……」
「は?」
「もっと進めよう」
 社長の一言で環境対策は全社一丸のプロジェクト、いや、社是やミッション、バリューのすべてとなった。株主、従業員、すべて無視して環境問題に取り組む鬼のような会社になった。当然出資者や従業員にはそっぽを向かれ、業績はみるみるうちに下降した。社長は私財をとうに投げ出し、自身もサハラの緑化に携わる中で現地の伝染病で死んだ。
 しかしその甲斐あってか、徐々に社の活動は世間の知れるところとなり、新たに支援者が現れ、緑のない地域に緑が、灰色の空が青く、変わっていった。
 長岡は社長の死後も社に身を捧げ、今は死の淵で、家族に看取られながら天寿を全うしようとしていた。窓の外には、夢のような自然の風景が広がっていた。社長がこれを見たら、なんと言うだろう。ここまで世界が変わることなど、想像できただろうか。部屋の大半を占める観葉植物、そののびのびとした枝葉の一つが、はっきりと長岡の方を向いていた。長岡はいつかの役員会で、社長がつぶやいた言葉を発し、そのままこときれた。


#5

コーヒーとミルク

怜子は写真が嫌いだった。自分の顔がどうしても気に入らず、気持ち悪いとさえ思うことがあった。周りを見ても決して見劣りするわけではないその容貌はむしろ多くの異性から好感を寄せられるものだったが、本人からしてみれば、「なんでこんな私を。」という気持ちだった。怜子が自分自身を見る時、そこには醜悪な自分が映っていた。誰かに打ち明けることもできなかった。

榮二は怜子に好意を寄せる一人だった。サークルで知り合った二人はお似合いとまでは言わないが、他のメンバーより近しい関係だった。ある日、2人で買い物に出かけていた。
好きな洋服をチラチラとウィンドウショッピングした後、歩き回った2人は休憩しようとすぐに目に入ったコーヒーショップに入った。

自動ドアに映った自分の顔に怜子はショックを受けたが、榮二はそれに気づかなかった。怜子は自分を持て余して、思い切って榮二に聞いてもらおうと思った。榮二なら明るく笑い飛ばしてくれそうな気がしたのだ。

「ちょっと聞いてほしいことがあるんだけど」
「ん?」
榮二は突然の雰囲気にドキッとした。
「実はさ、私自分の顔が好きになれないの。写真とか鏡とか自分の顔が気持ち悪いって思っちゃう…。」
「気持ち悪い?全然そんなことないけど?」
「そうかな…でも自分に自信が持てなくて…。」

少し沈黙が流れた。やはりこんなこと言うべきじゃなかったのかもしれない。気まずい雰囲気にしてしまった。怜子は後悔した。

「ケーキの写真撮ろっ。」

榮二はおもむろにスマホを掲げた。

「ほらっ、そっちも早く食べないと俺が代わりに食べちゃうよ〜。」

怜子は不意打ちの冗談に笑ってしまった。

2、3枚写真を撮ると、榮二は怜子にスマホを突き出して写真を見るように促した。怜子がスマホを手に取ってみると、そこにはケーキではなく幸せそうに微笑む怜子の姿があった。
かわいい。自分でいうのもなんだか気後れするけど、そこに映る怜子は可愛く撮られていた。私がこんな顔をしているなんて。はっとして榮二の方を見ると、彼は満足そうに笑っていた。
私はこの人の目にはこういう風に映っているんだと思うと、うれしいような、気恥ずかしい気分になった。

「ありがとう。」

怜子は写真と同じ笑顔で榮二に微笑んだ。


#6

オパール

前国王が死去した数ヵ月後だった。
前国王の死去後だから、隣国に付け入られないように気をつけないといけないにもかかわらず、国を守っていた結界が消失した。

「どういうことだ!!」
隣国から攻め込まれた時、新国王が大声を出した。自分の責務を果たしてないことを責められた気がした。
結界が消えた理由がわからなかった。そもそも結界を作っている魔法陣はどこにあるのだ?
結界についての書物は何一つ見つからない。国を守るものだから、城の中にあると思い込んでいたが見つからない。とにかく魔法陣を見つけないと、結界の修復ができない。
探し回っている間、時間ばかりが過ぎていく。

結界のおかげか、この国は一度も戦に出たことがない。つまり、訓練は受けても実践になど出たことがない兵士達にこの状況の打破は難しかった。時間とともに、状況は悪化していく。死者ばかりが増えて、前線は悲鳴を上げていた。
増援の依頼があったとき、残っているのは魔術部隊だけだった。
魔術使いを前線に送り込んでもたかが知れている。ただ死なせに行くだけだ。
それでも、魔術部隊は副長を先頭に出て行った。
「早く見つけて何とかするから」
そう言って、副長の手に握らせたのはオパールだった。

城中にないのであればと、大神殿の中を探し回っている時、後から声をかけられた。知らない男の声だった。
「誰?」
振り返るとフードで顔を隠した若い男が立っていて、その手には副長に握らせたオパールがあった。
「どういうこと?」怒りと混乱でその場から動けなかった。
「俺と契約しよ? 俺が力を貸してあげる」薄く笑った男の口元を今でも覚えている。

私は結局その若い男と契約を結んだ。
国王が死去したことで契約が切れて、結界が消失したとは思わなかった。
裏山に続く一本道の入り口にある小さな墓。その対面にある大きな木の根元、草の中に魔法陣が埋まっていた。
私と男の血を入れた葡萄酒を魔法陣の上に注ぐ。強い風が吹いて、漂っていた血の匂いが消えた。
彼は私にオパールを差し出した。
「多くの死者を出したのはキミのせい。キミが結界の契約者を殺して、結界の保護をしなかったから」
もっと精進したほうがいいよ、と彼はオパールを私に押し付けて、山の中に消えていった。
戦が終わったのはその翌日だった。

あのオパールは玄関に置いてある。戒めだった。
幸福も安楽も、決して勝手にやってくるものではない。誰かが誰かのために作り、守っているのだ。


#7

マスク

昔の人は人前でさえマスクをつけていませんでした。
先生がそう言うと教室はざわついた。男子は爆笑、女子は恥ずかしそうな高い声。だいたいこの授業をすると、はじめはこうなる。
原始人、恥ずかしくなかったのかよ。
それに汚いです。つばとか。
生徒たちは叫んだ。
そうね、確かに汚いね。マスクを着けるきっかけはつばでうつる感染症だった、なんて話もあります。
多分、昔の人は、体を触れたりするのも今よりたくさんしていたし、衛生面…きれいにしなきゃって意識が低かったのね。
あと、そう、恥ずかしい…その意識もあまりなかったのでしょう。マスクをしていないから、相手の顔も自分の顔も丸見えなんですけど、…
生徒たちの笑い声が響く。
うん。今は考えられないですね。でも、顔を見て、お互いに思っていることを伝え合っていたようなんです。逆に言うと、そうしないと生きていけなかった。
生徒たちはきょとんとした。教室が静かになった。
昔はひとりひとりの自由やプライバシーが守られていなかったの。心も体も。顔を隠せない。自分の思っていることさえ人に見せないといけない。人が飛ばすつばからも逃げることができなかったのです。
でも、そうしないと生きていけなかった。人と人との距離が今より近くて、近すぎて、逃れる方法がありませんでした。何かイメージとしては、自分の部屋のドアを閉めることが禁止されている、みたいな。だから、自分の自由や選択はあまり大切にされなかった。常に他の人たちの目があって、ある程度決まったことしかできなかったのです。人と違うことはしにくい。
今は自由で自分自身をちゃんと守れますね。だけど、昔の人の考え方にも良いことはあります。どこだと思いますか?…難しい?
昔の人はみんなすごく距離が近い。他人でも。だから、自分だけで何かをするのは難しいけれど、みんなで何かする時はすごくうまくいっていたと思います。他人の考えていることを顔で伝え合えるので。そして、ひとりひとりの責任も今より軽かったと思います。一人でなくて全体、みんなの責任となったはずです。
…まあ、昔のことだからわからないけどね。ちょっと考えてみてください。色々な考え方があると思いますので。
そろそろこの授業も終わりの時間ですね。少し早いけど、休み時間にしてください。

生徒たちは自分の仮面に手を触れた。人前で仮面を外すのは、人前で裸になるような恥ずかしいこと、そう教わってきたのだった。


#8

痣食

 露わになった奏子の背中にそれは棲んでいた。
 滑らかな白肌の上を、一匹の巨大な赤黒い百足が這っている。ただし、本物の百足ではない。そのように見える痣だ。
 その痣を、アロハシャツ姿の男が凝視していた。還暦くらいの、不気味な程に綺麗な肌をした小男である。
 奏子は恵まれた女だった。類い希な美貌、職業は外科医で、著名人の友人も多い。
 恋人の類いには不自由しなさそうだが、その実、彼女に恋人がいたことなど、三十年の人生の中でただの一度もなかった。
 愛する男の眼前に、どうしてこの醜悪な痣を晒すことが出来ようか。
 何度も手術を考えたが、痕が残ることを考えると踏み切れなかった。
 ある時、奏子は他人の痣を消すことの出来る人間がいることを知った。
《痣食》――あざはみと呼ばれる男のことを。
「……相当なイワレだね、こりゃ。ご先祖を恨みな」
 女のような細い指で彼女の肌を撫でながら、男は皮肉げに笑った。
 男によれば、特定の形を持つ痣は因縁による業や呪いなのだという。
 深呼吸をした後、男はぬらぬらと濡れる長い舌を伸ばし、痣の上へと這わせた。
 嫌悪と羞恥に身を固くしながら、奏子はこんな心霊手術じみた行為に縋るしかない己の境遇を呪った。
「終わったよ」
 彼の嗄れた声で我に返った奏子は、慌ててスマホで背中を確認した。刹那、彼女の喉から歓喜の悲鳴があがる。
 痣は跡形もなく消えていた。
 礼を言う奏子に対し、去り際に男は呟いた。
「……気ィつけな。執念深いぜ」
 それから一週間の後、奏子は思わぬ形で彼と再会することになった。
 手術台に男は寝かされていた。腹痛を訴え、緊急搬送されて来たのだ。
 偶然にも執刀医となった奏子は、半ば呆然としながらも、彼の腹部をメスで切り開いた。
 次の瞬間、周りにいた医師達は息を飲んだ。
 彼の内臓が赤黒く変色していたからである。いや、内臓だけではない。身体の内側が痣を思わせる異様な色と形に変容していたのだ。
 そして、奏子は見てしまった。彼の内臓に、一匹の百足がとぐろを巻いているのを。
 百足は何かを求めるように動き出すと、瞬く間に奏子の腕に巻き付いた。
 手術室に悲鳴が響いた。奏子のではなく、助手の悲鳴が。
 反射的に、奏子は自分の腕にメスを突き立てたのだ。血飛沫が上がり、手術室は大混乱に陥った。
 そんな最中、医師達は見た。
 開かれた《痣食》の身体から、ゾロゾロとナニカが這い出してくるところを。


#9

少年少女物語

 メロはこの物語の主人公ではありません。彼女は、主人公の鈴木悟から二メートルほど離れた場所を一瞬通り過ぎただけの少女です。
 鈴木悟は、皆さんもご存じのように、世界を守ったり変えたりするすごい力があるのに、自分はダメな人間だからと煮え切らないことばかり考えている少年です。なのでメロとすれ違ったときも、自分や世界のことばかり考えていたため、近くを通り過ぎただけの彼女のことなど目にも入っていませんでした。
 それにメロのほうも、鈴木悟が何かと戦ったことで世界が変わってしまったことなど、まったく知らないのです。

 このメロという少女の情報はあまりにも少なく、どんな顔立ちで、どんな服を着ていたのかさえ分かりません。
 しかし、彼女が鈴木悟と街ですれ違った季節は冬だったので、きっとコートなどを着ていたでしょうし、マフラーを首に巻きながら白い息を吐いていたことでしょう。そしてさらに想像を進めれば、メロという少女は、自分こそが物語の主人公だと思っていたのかもしれません――例えば、彼女が生き別れた双子の姉がいることを知らないまま、ある日バッタリ姉に出会ってしまうという物語を持っていたとしたら、彼女はその姉の存在についてしばらく悩まなければならないのです――なぜ彼女たちが生き別れたのかというと、そこには出生の秘密があり、父親が異世界の人間だったという物語があるかもしれません。彼女たちが生まれたあと、姉のほうを腕に抱いていた父親が突然、異世界に強制送還され、そのまま異世界へのゲートが閉じられてしまった(同時に異世界に関する記憶もメロから失われた)ということもあるでしょう。しかし鈴木悟の活躍によって世界の仕組みが変更され、再び異世界とのゲートが開いて双子の姉妹が再会する――メロにとっては、突然目の前に自分と同じ顔の人間が現れたことで頭がいっぱいであり、その理由までは分かりません。

 少女Xは、そんな登場人物たちのことを空想しながら、携帯電話の小さな画面にメロの物語を記述していきます。誰かに読んでもらうつもりはなく、ただ文字にしてみたいから夜中の二時にベッドの中で文字を打っています。
 すると、部屋の窓をコンコン叩く音が聞こえてきます。
 カーテンを開けると、白い獣がいて、窓を開けろという身振りをするのです。
「夜分に悪いが、これも物語なので仕方ない」と獣は言います。「君こそが、本当の主人公なのだよ」と。


#10

パーフェクト・ジジイ

 久方ぶりの電話、妻が取る。娘からだった。どうやら私はついにおじいちゃんになるらしい。狂喜乱舞する妻を横目で見つつ、とはいえ私も興奮を隠しきれない。予定日は五ヶ月後のようだ。「安定期に入ったんだねぇ〜」なんて妻が顔をほころばせている。なんてことだ。思ったより早い。時間がない。
 あと五ヶ月で、完璧なジジイにならなくてはならない。
 
 子供の頃から、仙人じみた存在に憧れがあった。真っ白な髪にふさふさの髭。ホッホッと笑い、それでいて身のこなしは軽く、「まだまだ若いモンには負けん」が口癖。そういった存在にいつかなりたかった。良い老い方というか、枯れ方をしていけば自然にそうなっていけるのだと信じていた。
 しかし実際はどうだろう。小汚い白髪交じりの頭。ごま塩のような無精髭。一人称をワシにするタイミングなど人生のどこにあるのか! いや、今なのだ。祖父になるこのタイミングで、華麗なジジイデビューを決めるのだ。妻には思い切って事情を伝えた。若い頃に話したことを覚えていたようで、大笑いしながら協力を申し出てくれた。正直、少し泣きそうになった。この人がいれば残りの人生も楽しいものに違いない。
「ワシ」呼びへの移行は思いのほかスムーズにいった。定年前に使っていた「私」から「た」を抜くだけだったのだ。何より、気恥ずかしがっていると妻が「ジジイになるんでしょ」と言ってくれる。不思議なことに、語尾も自然と「じゃ」、「じゃよ」という形になってきた。三週間もすると二人とも慣れ、むしろこれまでが思い出せないほどになった。
髪も妻に教えてもらった。実は妻も白髪染めの手間が煩わしく、綺麗に白髪を取り入れたヘアスタイルへの移行を考えていたらしい。美しい白にするためには一度紫を入れるといいということも知った。あの紫髪のオバちゃんたちは、その先のまっさらな白を欲していただけだったのだ。髭は諦めた。

 里帰りした娘は初めこそ面食らっていたもののすぐに慣れ、「その日」は予定より少し早くやってきた。ついにホッホッホを披露する時が来たのだ。
 念入りに消毒をし、疲れと涙でぐちゃぐちゃの顔をした娘と、しっかりと抱かれた孫娘を見る。娘が生まれた時にそっくりだった。数瞬の間に、これまでの全てが去来する。涙が溢れるというのはこういうことだったのか。
「じぃじだよ〜」と笑いかけるのが精一杯だった。仙人への道は果てしなく遠い。


#11

言葉盗人

 声を盗まれたのがいつなのかはわからない。気がついたら声が出なくなっていた。話したいことはいっぱいあるのに、伝え方が皆目わからない。
 大丈夫だとかれは言った。自分があなたの声になりましょう、あなたの話したいことを自分が代わりに伝えましょう、安心してください、と。実際、かれが語ってくれた言葉は、伝えたかったことそのままだったので、かれの言葉どおり安心して、かれの声にすべてを託した。
 私たちは共にあちらこちらへ出向いた。人と会うことがあると、かれが代弁者として会話をする。人が集うことがあると、かれが代弁者としてスピーチする。かれの堂々とした声音に惚れ惚れし、その内容にひとつひとつ頷く日が続いた。
 ずれを感じ始めたのがいつなのかはわからない。気がついたらかれの言葉に何ひとつ賛同できなくなっていた。伝えたいことはいっぱいあるのに、伝え方が皆目わからない。
 紫外線を避けるためだとか、感染を防ぐためだとか、言葉巧みに、かれは私の顔に仮面をかぶせてしまった。仮面の内側から外の風景を見ることはできる。けれども、もうかれ以外の誰もその仮面の内側を見ることはできない。かれは意気揚々と私の言葉を伝え続けるが、それはもう私の言葉ではなく、かれの言葉になっていた。
 ある日、ひとりの人が私に手紙を渡した。私宛てのその言葉を、理解することはできなかった。これは何、と、その人に問うと、文字です、と、その人は答えた。
 その人は私の教師になり、私は少しずつ文字を覚えた。その人手製の辞書を引き引き、やっと書きあげた手紙をその人に渡すと、満面の笑みを浮かべて喜んでくれた。嬉しくて嬉しくて、何通も手紙を書いた。手紙を渡すたび、その人はこれ以上ないほどの喜びを見せてくれた。
 やがて戦が始まった。何年も何年も続いたその戦は、私の故郷を荒廃し尽くし、終わりを告げた。
 私は裁判にかけられた。代弁者だったかれが私を糾弾し、私が記した手紙が証拠として示された。私は記した言葉にまったく覚えがなく、かれが証言する私の堕落や転向にもまったく覚えがなかったが、かれの言葉こそが真に私の言葉であることも、私が記した言葉が真に私の言葉であることも、事実なのだろう。
 私の声を盗んだのは、いったい誰であったのか。返してほしいと、今でも思ってはいるが、返ってきたところで、それが真に私の言葉であるのかどうか、私にはもうわからないことだろう。


編集: 短編