第220期 #7

アジの食卓

うちの親父は外面がいい。
頼まれたら嫌と言わないし、ちょっとやそっとのことでは怒りもせずヘラヘラと笑っている。この前は順番に当番が回ってくるはずの地域の班の班長を、誰も引き受けなかったからと勝手に引き受けてきて、やれ会合だ、やれ書類作成だと眠る時間を削ってまで取り組んでいた。

母が、
「よそじゃなくて、もっとうちのことを優先させてよ。」
というと、親父は、
「ちょっと多めにサービスしとかないとな。」
と、何の悪気もないようだった。

だからといって家で同じようにするかというと別問題で、家では「お茶」「メシ」と亭主関白を気取っているし、ヘラヘラなんかしていないから夫婦喧嘩だって少なくはない。母は周りの奥さんに、「旦那さんいい人ね」と言われる度に「うちでは全然そんなことないのに」と苛立ちを募らせるのだった。

ある日、僕が仕事から帰る途中の家の玄関先で喧嘩のような大きな声を出している中高年の男がいた。
チラリと目をやると、それは近所でも噂の爺さんだった。噂とは"全く働かないし、昼間っから酒を浴びて寝転がっている"という噂だ。しかも揉めているその家は爺さんの家ではなくよそのお宅のようだった。くわばら、くわばら。僕は気づかれないように、そーっとその家を後にした。

自宅に着いてくつろいでいると、玄関から聞き覚えのある声がした。
なんと噂の爺さんはうちにもやってきたようだった。親父が出て行ったが、さっきの様子を思うと…。
僕は玄関を心配したが、爺さんはうちの親父とは円満にやっていっているようだった。そういえばうちの親父がよその人と喧嘩をしている話も、なにか揉めているという話も見たことも聞いたこともない。雑談が始まると、笑い声なんかも聞こえたりして、まったくさっきの爺さんとは別人のようだ。なぜこんなにも違うのか。

僕は気づいた。近所の迷惑な爺さんも親父がいい面を引き出してくれていたのだ。家族は、"親父は外面がいい"と思っていたけれどそうではなかった。僕らは今までずっと世間からこうやって守られてきたみたいだ。

その日の夕飯時、僕は珍しく親父のやることに口を出したくなった。
「父さん、班長の仕事は捗ってる?」
親父は、
「ぼちぼち。ちょっと多めにサービスしとかないとな。」
そう言ったきり、アジの小骨に気をとられているようだった。

かっこいい親父だ。いつか親父みたいな男になって家族を守る。
僕はそう決心した。



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