第22期 #2

崖のほとりで

 夕日の陽光に赤く凪ぐ春の海 見下ろしつつ、彼女は崖の先端に立って、僕は潮風にふわりと揺らぐ彼女の髪のかすかな匂いを、鼻に感じておりました。


「やっぱり、私、迷惑はかけられない」

「えっ?」

「ごめんね。でも、もう、だめよ。このままだと 私 あいつに殺されるか、あいつを殺してしまう。あいつから逃れられないなら、もう、私が死ぬしかないわ。今までありがとう、ごめんね」


 彼女はそう言うと 僕の止める手が彼女に達する前に、崖から飛び降りていきました。

 崖から身を乗り出して手を伸ばす僕 虚空をすべり落ちていく彼女  夫から殴られていた彼女 ようやく自由になれるはずだった彼女、・・・ようやく 僕と 一緒に生きていけるはずだった彼女。

 呆然とする僕の下で、砕ける水面 上がる水しぶき 一瞬だけ飛ぶ血。

 やがて静かになった海の上には、彼女の無残な後姿と、今さっき僕が海に突き落とした 彼女の夫の 青白い顔が、赤い夕日に照らされて 静かに 揺れつつ 浮かんでおりました。


Copyright © 2004 神藤ナオ / 編集: 短編